宗教の改革
この頃宗教界にはいろいろ醜悪な事件が現はれて世間から顰蹙されてゐる。そのやうな事件は既成教団の内部でも生じてゐるのであるが、また新興宗教乃至邪教においても最近崩壊作用が行はれてゐるやうである。いはゆる宗教復興も今や清算の時期に達したのであらうか。
注意を要するのは、かの新興宗教もその教説のインチキ性によつて没落し始めたのでなく、主として経済的問題から自壊作用を起してゐるといふことである。この点でそれは正統教団の内部で発生してゐる事件と根本において性質を異にするものではない。
一体、現在の教団は世間の政治的経済的組織と同様のものになつてしまつてゐるので、一擬似宗教が宗教株式会社として現はれたといふことは、偶々その点を露骨に示したに過ぎないとすら極言し得るであらう。だから一部の人の云ふやうに宗教家には社会的政治的関心が少いなどとは単純に云へないので、反対に今日の宗教家は世間の政治家、企業家、経営家と全く同じになり、社会的政治的関心があり過ぎて困るのである。そのやうな宗教家において、世間の政治家などに見られるのと同様の醜事実が現はれたとしても、不思議はないので、偶々彼等がそのほかになほ「宗教家」であるために、特別に世間の注意を惹くに過ぎぬ。
もし宗教の復興が可能であるとすれば、それは教団の改革に始まらなければならない。教団の改革に解れないで宗教の復興を欲しても無駄である。然るに現在の救国は世間の政治的経済的組織と同じものとなつてをり、現在の文学の社会機構の内部においてその制約を受けてゐるのであるから、教団の改革を欲する者は、現在の全社会組織の改革を欲するのでなければならぬ。
勿論、宗教家は宗教家として単なる社会改革家でなく何よりも宗教改革家であることが要求される。併し彼の宗教改革的意見は社会改革的締結を含むやうなものでなければならない。嘗てルターの宗教改革は封建制度に対して擡頭する新興ブルジョワジーに適合したものであつた。宗教家は現在その教説に改革を加へ、新時代に適する「新しい経典」を作るほどの勇気と覚悟とを必要とする。かくて私の屡々云つてきた如く、「宗教改革」なくして宗教復興はあり得ないのである。
(七月十四日)