養生の説



 我が国の昔の儒者や仏教家の著述には養生について書いたものが少くない。益軒の『養生訓』、沢庵の『骨董録』、等々、有名なものがある。それは勿論支那思想の影響によることであらうが、日本精神史にとつて注目に値する事実である。
 特に興味深いのは、隠遁思想と養生思想とが極めて屡々結び附いてゐるといふことである。世を遁れる者が養生に努めるといふことは一見矛盾のやうである。しかし世を遁れることがそれ自体、人寿を全うし長命を楽しむために大切な手段であると考へ得るであらう。
 ところで近頃、少壮乃至中堅と云はれる人々の間にさへ、長生きせねばならぬ、養生をせねばならぬ、といふやうな談話が交されてゐるのを多く耳にするやうになつた。勿論、人生において、早く死ぬるのは負けであるに違ひない。しかしこの頃の養生論にはもつと複雑な意味が含まれてゐると思はれる。
 社会の不安のために、地位も、財産も、その他何物も頼み得ないことが次第に感ぜられ、頼りになるのは結局自分の身体だけだといふ風に考へられるであらう。或ひは現在の社会の風潮が自分の志を遂げるに不利なのを見て、長生きして、あまり遠いことでない社会の変革の来るのを待つてゐようといふやうな気持もあるであらう。また社会の動揺のために自分の思想の方向が決定されず、徒らに焦躁を重ねることに疲れて、社会の動向が明瞭になるまで、いま少し待つことにしようといふ気持もあるであらう。
 いづれにしても、近頃の養生思想には、一定の目的に向つての自己の現在の活動を成就するには歳月が必要であるとして衛生に留意するといふやうな積極的なものが乏しいと思はれる。理想と確信とに燃ゆる者にはまた自己の身命を顧みないところがある。しかるに近頃の養生思想はたいてい人生及び社会に対する消極的な、更に敗北主義的な態度と結び附いてゐる。隠遁思想との距離は遠くないであらう。我々はその養生思想のうちに東洋的な隠遁思想の復活の徴侯を見ることができる。
 最近政府は軍部の要望に基いて国民の衛生保健を国策として掲げてゐる。政治家はもつと心理学者でなければならぬ。養生思想は近頃決して乏しくはない。かやうな養生思想の発生の社会的原因の除去が却つて健全な衛生思想の発達の前提として必要なのである。 

  (七月七日)