生産者の立場



 バリの博覧会における日本館について、建築家と当局との間に意見の相違があると云はれてゐる。建築家が現代日本的な建築の設計をしたのに対し、当局はフジヤマを控へてゲイシャがサクラを眺めるといつた風の建築を要求してゐるとのことである。私はこの場合専門建築家の意見に賛成したい。
 なるほどフジヤマやゲイシャやサクラは日本的特性を現はしてゐる。併しそれらによつて象徴されるものは現代日本の文化の現実とは距離がある。建築にしても、特に公共的建造物は現在殆ど凡てが、西洋式でなければ西洋式の基礎の上に日本的なものを示すことに努めてゐるのである。そして西洋人が実際に知りたがつてゐるのも、かかる現代日本的なものである。
 フジヤマやゲイシャやサクラが象徴するやうなものを西洋人が喜ぶのは、異国趣味としてであり、従つてディレッタントの立場においてである。私どもの外国滞在の経験から云つても、多くの西洋人は最早そのやうな異国趣味の域を脱して、寧ろ現代日本人が彼等と同様の文化に関してどれほどの力量を有し、且つそのうちにどのやうな特殊性を発揮し得るかを知らうと望んでゐる。東洋の諸民族の日本に対する関心もその点にかかつてゐることは、支那人留学生についても知り得るであらう。
 聞くところによると、国際文化振興会などに向つても、日本の社会や思想の現状を紹介してくれといふ諸外国からの註文がかなり多いさうだ。然るに振興会あたりでは、過去の古典的な日本の紹介には熱心であるが、現代日本の文化の実情の紹介に対しては甚だ臆病に見えるのは、何故であるか。
 我々も日本の過去の文化を尊重し、愛好する。併しそれが如何に美しいにせよ、ひとたび生産の立場に立つとき、我々はそこに留まり得ない。我々は最早それと同じものを、それに匹敵し得る高さにおいて自ら作り得ぬであらう。現代の社会生活並びに文化的環境はそのことを不可能にしてゐる。我々自身の文化生産にとつては現在の現実がその地盤であり、この上に立つてのみ将来に対して意義ある日本的文化を生産し得るのである。ひとは過去の文化を愛玩し、鑑賞し、解釈しさへする。併しそれだけではディレッタントに終り易い。生産者の立場は一層困難で、一層真剣なものであることを知らねばならぬ。
 この頃日本主義の宣伝に伴つて、過去の日本の文化のディレッタントが多数に生じつつある。日本主義は文化上では復古的ディレッタンチズムに化してゐる。かかるディレッタンチズムが文化の新たなる生産の立場を圧迫しつつあるのは、日本の将来にとつて、これこそ真に憂ふべきことである。


(六月十六日)