人民の声
旅行すれば人は多少は利口になるものだと云はれてゐる。併しこれは誰についても云はれ得ることでない。馬鹿は旅行することによつて一層馬鹿になるだけだ。社会学者テンニースは書いてゐる、「旅行すれば、利口な者は益々利口になり、馬鹿は愈々馬鹿になる」。我々はこの言葉を特に官吏の旅行について想ひ起す。
旅行者は短い期間の次い見聞から概括論、一般論を立てたがる。何等かの報告の義務を負はされてゐる役人においてこの弊害は生じ易いであらう。殊になるべく上司の気に入るやうな報告を持つて帰らねばならぬ者は、旅行してもその眼は塞がれてゐるに等しい。出発の官憲によつて予め作られた行程に従ひ観察して廻つたとて、民間の実情が知られるであらうか。誰も自分の郷里の悪い方面を旅行者に見せることを好まない。まして自分の治績を吹聴することを利益とする地方の役人の案内によつて、その地方の現実が完全に知られ得るであらうか。年度末になると、その年の予算の残りを費ひ尽してしまふために、急に殖えるのが例となつてゐる出張旅行の如きは、全く論外だ。
後藤前内相は「行脚政治」を唱へた。併し官吏の行脚によつて民間の実情に即した政治が果して行はれるやうになるかどうか、疑問である。旅行すれば、馬鹿は愈々馬鹿になるばかりでなく、利口な者も馬鹿に化する危険がある。官尊民卑の風のある国において、地方へ出掛けて閣下とか先生とか云はれて歓迎されてゐると、少々利口な人間も馬鹿になつてしまふ。始終地方へ行く講習会学者に見られるやうに、行脚官更も低調になり易いであらう。
民間の実情を知るには、観察旅行だけでは足りない。人民をして自由に自己の実情を語らしめねばならぬ。医者は患者にその症状を訴へさせる。患者の話を聴き、それを自分の医学的知識で分析して、医者は病気に対する治療法を見出すのである。政治に携はる者も医者と同様に先づ人民の声を聴くことが大切である。人民の声が自由に自分に達するならば、そして自分が十分に社会に関する科学的知識を具へてゐるならば、行脚に出掛ける必要もそれほどないのである。
言論の自由を抑圧し、人民に沈黙を強制しておきながら、どれほど観察や調査を行つても、真に民間の実情に如した政治は行はれ難いと云はねばならぬ。
(六月九日)