低調な世の中



 尾久の殺人事件は近頃センセイショナルな事件であつた。議会に対する関心などは、この事件に対する興味に比しては殆ど何物でもないやうであつた。この殺人事件に何か変態的なものがあつたとすれば、それに対する社会の興味にも更に変態的なものがなかつたであらうか。
 「センセイショナル」といふ語は今日の社会に最も特徴的な言葉の一つである。爆発、偶発、突発の事件は我々の生活の日常的な状態となつてゐる。それらのものは多くの人々においては真実の欲求とさへなつてをり、彼等の心は突然の変化、つねに新たにされた刺戟によつてのほか楽しまされない。センセイショナルな事件は絶えず起り、どのやうな事件もなるべくセンセイションを喚び起すやうな仕方で伝へられる。好奇心は新しい事件を求めて不安である。かやうな状態は一の病理学的な状態ではなからうか。
 物に対する不安な好奇心のうちに隠されてゐるのは自己自身の存在の不安である。今日かくもセンセイションが求められてゐるといふことは、この社会の不安を語るものにほかならない。
 センセイションを求める人々において失はれたのは驚異の心である。彼等は今日の事件の何物に真に驚異を感じてゐるであらうか。何物にも驚異しないといふことは虚無主義の心理で通ると云はれてきた。しかるに、何物にも驚異しない心がなほ絶えずセンセイションを求めてゐるといふところに、今日の虚無主義の低俗さがある。驚異の心が貞潔であるに反して、好奇心は反対である。好奇心は一つの物の側に留まることを欲せず、さきざきへ彷徨する。それは何処にもゐて何処にもゐない。好奇心は宿無しである。
 「驚異こそ哲学者の感情である」とプラトンは云つた。しかるに驚異の心の貞潔を失つてセンセイションを求める低俗さに堕した好奇心の結果は、たかだか懐疑主義に過ぎない。懐疑主義は実践的には功利主義、便宜主義となるのがつねである。少くとも、現実に対して極めて妥協的であるといふところに、今日の懐疑主義の低俗さがある。
 我々の周囲には歴史に稀な、真に驚異すべき大事件、大変化が起つてゐる。しかるに、この世の中の低調さはどうであらうか。好奇心を最大の悪と見做した昔の宗教家や哲学者の人間心理の理解の深さが今更の如く思ひ出されるのである。


(五月二十六日)