国語国字の問題



 平生文相の漢字廃止論が議会において非難攻撃を蒙つた。文相はこれに対して漢字廃止は自己の個人的意見に過ぎぬと釈明して済ませたが、国語国字の問題は教育上文化上極めて重要な事柄である。それは我が国多年の問題であつて、従来も種々論ぜられてきたが、最近においてはまた標準語の確立、外来語の整理等、国語統制論が新たに現はれてゐるやうである。
 言語と社会とは密接な関係を有し、社会の変化するに伴つて言語も変化する。更に同じ社会の内部においても世代の相違に従つて言語も異り、若い世代は自己の感覚、感情、意欲を表現するために旧い世代とは興る新しい言葉を用ひる。このやうなことは一般的真理に属するが、国語統制論者によつてとかく見逃されがちである。
 今日我々の国語の改善、統一等が問題であるとすれば、それは単なる統制主義の立場からでなく、文化生産の立場から解決さるべきことである。この点で伝統と創造との激しく格闘する場面につねに身をおいて制作に従事する文学者の如きから最も多くを期待しなければならぬ。明治時代において言文一致体を確立するに与つて大いに力のあつたのは文学者であつた。
 国語国字の問題が我が国で特別に複雑な、そして困難な問題となつてゐるのは、嘗て本欄で論じたやうな日本文化の重層性といふ特殊な事情に基いてゐる。我が国においては種々なる文化、支那文化、西洋文化などが並在し、それらは客観的に真の統一をなしてゐないに拘らず、主観的には何等矛盾として感ぜられてゐない。このやうなことは言語文章の方面においても認められる。単なる便宜主義の立場から漢字廃止を唱へても無力であるのはそのためである。また外来語の統制を主張する者が、西洋の言葉をそれ自身実は一つの外来語にほかならぬ漢語に訳して用ひるだけで外来語の整理であるかのやうに思ひ誤るのも、同じ事情によるのである。
 私はいはゆる文化の重層性を日本の特殊性である故にそのまま尊重せねばならぬと考へる者ではない。我々の文化は客観的にも真に統一ある表現に達しなければならぬ。そこで国語国字の問題は、日本の場合特に将来の文化の統一的精神を何処に求めるかに関係してゐる。かやうにしてその問題は一個の思想問題でもある。
 言語の民族的純粋性はイタリアやドイツなどでも唱へられてゐることであるが、国語国字の問題が今日我が国において新たに問題になつてきたのも、社会的に見て意義深いことである。

(五月十九日)