地方と文化


 東北地方の災害は行政上の画一主義の弊を漸く認識させるに至り、東北庁の如きものの設置が問題になつてゐるが、同様の問題は文化の方面にも色々あるのである。
 我が国の文化は東京に集中してゐる。芝居、音楽、美術、その他学校、出版、等々、殆どすべて東京に集中し、この都会と地方の都市との懸隔は甚だしい。封建的文化の残存物ならともかく、現代的文化に関しては東京が我が国唯一の都会であると云つてもよい有様である。それぞれの地方に特色のある文化が発達してゐないために、現代日本の文化は多様性に乏しく、豊富さを欠いてゐる。
 地方に文化が発達してゐないことは、我が国の文化が絶えず流行の暴威に委ねられてゐる原因の一つである。各地方に独自の文化が存在しないから、東京の流行は何等の抵抗にも出会ふことなしに地方を席巻する。内地を旅行して、一ケ月遅れの、或ひは一ケ年遅れの東京の流行しか文化的には経験し得ない場合、私は憂鬱になる。もしもそれぞれの地方に独自の文化が発達してゐたならば、我々の国民性に基くかのやうに慨歎されてゐる流行も、そんなに恐るべきものではないであらう。
 また地方に文化が発達してゐないことは、我が国において新しい文化の成熟が困難にされてゐる一つの原因である。新しいものが流行することは決して悪いことでない。しかし必要なことは、そのうちの何物かが真に成熟するといふことである。成熟するためには、特殊な伝統の故にその物にとつて特別に足溜りとなり得るやうな場所が必要である。もし地方の都会に各々独自の文化があつたならば、新しい流行にしても、或るものは或る地方で、他のものは他の地方で、それぞれ自己に適した土地を見出して成熟し得るのである。
 更に地方に文化が発達してゐないことは、我が国に文化上の自由が少い一つの原因である。流行の暴威が如何に甚だしく文化的自由を抑圧してゐるか。何処にも一様の文化しか有しないために、或る処で容れられないものは他の処でも容れられず、自分を自由に伸ばし得る文化的環境を見出すことができない。個性のある文化が作られないのもそのためである。
 かくの如き弊害は日本における政治上の画一主義、教育上の画一主義等の結果である。今日世界的画一主義に対して日本の独自性を自覚することが必要であるとすれば、我々はもつと手近に日本の内部における画一主義の打破について考ふべきではないか。

 (五月十二日)