文学者の不遇



 最近一二の目立つた事件をきつかけにして文学者の生活上の不遇が問題にされてゐる。かやうな不遇はもとより今に始まらないであらう。しかし昔はそれが「天才の不遇」などと云はれて、却つて若い人々のロマンチックな、英雄的な気持を唆るものであつたのに、この頃ではそのやうな事件に出会ふ毎に若い人々までが生活について考へるやうになつたところに、変化があり、問題の深刻さがある。
 他人の作つた過去の作品について講義をして暮す学校の教師は、たとひ十分優遇されてゐないと云つても、そのやうな作品を実際に生産する文学者に比しては生活の安定を与へられてゐる。幾年文壇で働いても、そのために原稿料が上るのでもなく、年金が貰へるわけでもなく、そのうへ常に後から来る若い作家と自由競争をさせられてゐるといふのでは、文学者が生活の不遇を喞つことがあるのも当然であらう。
 尤も、このやうに生産者が尊重されないといふことは、一般的に見れば、単に文学の世界のみではない。学問の世界にも同様のことがある。例へば、毎年学士院賞の受賞者は、文化科学の部門では、その殆ど凡てが東洋に関する歴史的研究に限られてゐるやうである。この方面の研究も大切には相違ないが、現代の生きた問題に直接関係する文化科学や哲学における本来の生産的な仕事があまりに無視されてゐる。学士院の存在が社会と全く没交渉になつてゐるのもそのためにほかならない。
 更に広く眺めるならば、生産者の不遇は現代社会の一般的状態であることが知られるであらう。それは単に精神的文化の生産者の場合においてのみでなく、却つて何よりも農民や労働者の如き物質的生産に従事する者の場合において認められる。二つのことは決して無関係ではない。物質並びに文化の両方面において生産者尊重の倫理を確立することは今日の社会の急務でなければならぬ。
 文学者の不遇が社会的原因にもとづくことは明かである。しかし今日注意を要することは、自己の問題をただ社会に帰して、これを主体的に把握する勇気が失はれつつあるといふ傾向である。凡てを社会的に客観的に見ることは今日の常識となつてゐる。これはもとより極めて重要なことであるが、そのために却つて俗物根性が次第に広く発生しつつあるといふことがなからうか。かかる俗物根性に対して英雄的精神の誕生が待望されるのである。そこに我々は生産者自身の倫理を要求する。


(五月五日)