漢字の効用




 支那は文字の国であると云はれる。かう云はれる意味にはもちろん支那における文字の豊富、修辞の発達等を称揚する意味が含まれてゐる。しかし他の反面には支那人は、ただ辞令に巧みで誠意が欠けてゐるとか、行為が言葉に伴はないとか、などいふ非難の意味も含まれるのである。
 日本人の作つた漢文や漢詩は支那人に遠く及ばないであらう。しかし漢字や漢文は荘重、簡潔、威厳、等々の特色を有するといふ伝統的意見が有し、口語文の発達した今日においても、そのために漢文口調が用ひられる。官庁の文書の如き、その例である。だが果して口語文には荘重、簡潔、威厳などが欠けてゐるかどうか、疑問である。寧ろ反対に考へられる場合も少くない。それに漢字や漢文口調は何となくそらぞらしい感じを抱かせることがあるものである。自分のほんとの感情や意志を隠すためには漢字や漢文口調によるのが都合の好いことがある。官庁の文書も漢文口調では大衆に親しみがないから、口語文にするやうにとの要求が起り、近年それが部分的に次第に実現されつつあつた。
 現内閣は「声明内閣」とあだなされるほど屡々声明を出したが、私どもの気附くことは、この内閣になつてから「更始一新」とか、「抜本塞源」とか、「吏道振粛」とか、「秕政」とか、「庶政」とか、色々むづかしい漢字が現はれるやうになつたことである。近年国民教育の負担の軽減と実質の向上のために漢字の制限が唱へられ、また実行されてきたのであるが、それがこの頃では逆転しつつあるやうに感ぜられる。それらのいかめしい言葉は何となくそらぞらしく感ぜられないまでも、大衆に親しみがない。庶政の一新も、秕政の改革も、大衆とは無関係であるが如くであり、大衆の協力を俟たず上から政府や官吏がやるのだといつた官僚イデオロギーが無意識にその中に現はれてゐるやうにさへ感ぜしめる。
 あの二・二六事件当時の『兵に告ぐ』といふ一文を想ひ起してみよ。それはまことに平明な口語文であり、難解な漢字など使用されてゐない。この文章は人々に感銘を与へた。それには当時の民衆の心理的状況、ラヂオによる生きた言葉での放送等の原因もあつたであらうが、しかし何よりも、ほんとに兵隊に訴へようとする切実な要求がその基礎にあつたのによるのである。
 大衆の協力に訴へることなしには如何なる改革も行はれ難い。現内閣の声明が、徒らにいかめしい漢字をならべて、何か大きなことが行はれてゐるかの如く思はせて、実は何も行はれてゐないといふ「支那式」修辞に終らないことを望む。


(四月二十八日)