教員の道徳




 東京市における小学校長視学等の賄賂事件は世人の記憶になほ新たなことであるが、最近また二三の風紀問題が起り、男女教員に対して相互の接近交際を制限乃至禁止する厳重煩瑣な命令が発せられたと伝へられてゐる。
 男女間の道徳の混乱は現代社会の一般的な事実である。それが特に教師の場合に振立てて喧しく云はれるのは、酷に過ぎ、気の毒なことだと思ふ。「弱き者よ、汝の名は教師なり」と歎ずる者も少くないであらう。
 もとより教師は人の師表となるべきものとすれば、その行為も模範的であることが望ましい。しかし模範的に行為するといつても、現に道徳の規準が存在しないとしたらどうであらう。今日の社会においては旧い道徳は次第に毀れて未だ新しい道徳が確定してゐないといふ状態である。このとき真に人の師表となり得る者は新しい道徳を、思想的にも実践的にも、創造的に樹立する者でなければならぬ。「男女席を同じくせず」といつたやうな封建的道徳を復活させてみたところで、それが今日何等か指導的な意味を有し得るであらうか。
 道徳の混乱は必ずしも道徳の頽廃と同じでない。我々は現在旧い道徳を一見忠実に守つてゐる者の間に寧ろ精神の失せた、人間性の褪せた形式主義、便宜主義、功利主義等の頽廃を見、道徳の混乱と云はれるもののうちに却つて或る健康なものを感ずることが稀でないのである。問題はかやうな混乱の中から新しい道徳を建設することであつて、封建的道徳の強制的復活によつて、さなきだに師範学校の特殊教育のために禍されてゐると考へられる教員を一層因循姑息ならしめることではない。
 昔は仁術と云はれた医術も今では全く一個の職業となつてゐるやうに、教師も現在では単なる一個の職業となつてゐる。今日の教師にとつての矛盾は、社会からあらゆる機会に自己が一個の職業人に過ぎぬことを意識するやうに余儀なくされながら、同時に社会から人の師表となるべきことを要求されてゐるといふことである。併し更に大きな矛盾は、人の師表となるべき教師にとつて道徳の規準が与へられてゐないといふことである。かやうな矛盾の根源が社会にあるとすれば、社会は教員に対して同情的であるべきであるが、他方教員も現代社会について認識を深めなければならぬ。これが今日の教員の第一の道徳である。


(四月二十一日)