文化の公共性



 先達て洋行から帰つた人に会つたら、日本の街を歩いて気附くことは、外国のやうに藝術家、科学者、哲学者などの彫像が建つてゐないことである、と話してゐた。外国から日本へ来た人のうちにもこのことを不思議に感じる人もあるらしい。
 尤も日本でも大学へ行けば学者の彫像が建つてゐないではないが、しかしそれは総長であるとか、学部の創設者であるとか、特に行政的功績のあつた人のものであるやうだ。
 私はあながち街の広場や公園の中に、彫像を建てることを勤めようとする者ではない。それは悪趣味に流れ易い。建てるのならよほど立派な彫刻でないと困る。それに日本の空気、光線等の条件が問題になることでもある。しかし、いつか喧しく論ぜられたやうに文学者の社会的地位の向上といふことが問題であるとしたならば、これなど、その一方策となり得るであらう。またその場合、彫像を建てることが不都合であるならば、外国の例にあるやうに、街の名に文学者の名を附けるのもよいであらう。独歩通、四迷町、一葉広場など、なかなか面白いではないか。
 もちろん銅像建立や町名改正などはどうでも好いことである。必要なことは、そんなことでもして日本の文学、その他の文化を民衆の面前に持ち出すことである。これによつて民衆に自国の文化に対する愛、文化貢献者に対する尊敬を絶えず喚起させることも好いし、もつと大切なことは、それによつて民衆に文化の公共性を意識させることである。
 我が国には文化の公共性の意識が欠乏してゐた。永い間、風流、冥想、秘伝等の観念が支配してゐた。今日でも美術品の如きは個人に私有されて公開されないものが多い。作品の社会性については色々難しい議論がなされてゐるが、最も簡単には文化の公共性の意識の問題であるとも云へる。
 公共性はあらゆる文化にとつて本質的な規定であるとすれば、文化の公共性の意識は本質的な文化意識である。藝術家、科学者、哲学者の彫像を建てるといふにしても、英雄崇拝の気風を養ふためにでなく、それによつておのづから文化の公共性の意識を高めるために考へられることである。
 図書館、美術館、その他、更に好い方法はいくらもあるであらう。学制改革ばかりが、或ひは文化統制ばかりが、文化政策ではない。本質的な文化意識の向上のために必要なことが他に多いのである。文化政策の貧困も既に久しいことではないか。   

      (四月十四日)