新個人主義


 この頃私の出合つた一国の青年は、新個人主義提唱の必要を大いに語つた。最近のファッショ的文学主義の非合理性に対して個人主義、合理主義を昂揚すべき必要を痛感してゐる者は恐らく少くないと思はれる。
 実際、我が国の社会及び文化における諸弊害が個人の人格を重んぜず、個性の意義を認めないといふことに起因してゐる場合は、想像以上に多いであらう。個人主義といへば単なる利己主義のやうに解され、人格の尊厳、個人の自由といふが如きことは社会常識として十分徹底してゐない。封建的思想の残存物は考へられるよりも多く、近頃流行の統制主義などもそのやうな封建的なものの強化となつて現はれる危険をもつてゐる。かやうな事情において個人主義の本質及び価値の再認識の必要は確かに存在するのである。
 しかしながら私は翻つて考へる、人格の自由と尊厳は力説さるべきことであるにしても、現代人 ― それは我が国においては青年と云ふのと同意味である ― には、一体「人格」といふものがあるのか、と。人間の人格的観念が失はれてゐる。現代文化の混乱と、この混乱のうちにおける知性の実証主義とによつて、人間の人格的観念は失はれた。
 誰も近頃の子供の早熟に驚くであらう。早熟は現代の一つの特徴である。しかも早熟な現代人は真に成熟する暇を有しないのである。現代文化の混乱、その動揺の速度は、我々に成熟する暇を与へない。成熟しない早熟からマンネリズムが生ずる。例へば今日の若い文学者においてそのやうなマンネリズムを感ぜしめない者が幾人あるであらうか。また青年哲学者における弁証法的マンネリズムを見よ。成熟することのない人間は必然的に無性格である。そのうへ今日の著作家たちは、昔の人の徳であつたやうな、後世とその判断に対する信仰をもつてゐない。
 かくて堅持、固執、責任、不滅性等、従来の人格観念の主要な要素が現代人にとつては失はれてゐる。このとき個人主義を主張することは無政府主義、虚無主義に陥る危険を含んでゐる。それ故に新個主人義も新しい人間の観念を確立すること以外のものであることができないであらう。
 新個人主義も人間の観念の新たなる確立といふ現代人の最深の希求の現はれである。この希求は普遍的である。現代日本の教育や政治は何によつてこの希求に応へようとするのであるか。

                    (四月七日)