公衆の解消



 公衆は解消した、もしくは解消しつつある。最近我々はかやうなことを特に強く感じないであらうか。
 公衆とは輿論といふ知的表現をもつたものである。輿論と公衆との関係は精神と身体との関係である。近代においては輿論を作り、輿論を代表し、輿論を再生産するものは主としてジャーナリズムである。だが輿論形成の根柢にはつねに談話がある。いかに新聞雑誌が発行されても、ひとが談話しないならば、それらは精神に持続的な滲透的な作用を及ぼすことができないであらう。ジャーナリストは寧ろ公衆の談話の書記であると云つてよい。かくて、言論の自由或ひは談話の公共性の存在が公衆の存在の基礎である。
 あの二・二六事件以後の著しい変化は、民衆の政治的関心の昂揚であると云はれる。この点においてそれは過般の総選挙などとは比較にならぬ重要な意義をもつてゐる。事件の突発はあらゆる談話を無用にした。しかし突発した事件の結果はあらゆる談話の動機となつた。このやうな談話は輿論として表現され、かくて政治的関心の昂揚は公衆の発達を齎したであらうか。寧ろ反対に公衆は解消されつつあるやうに見える。
 報道や言論の自由が甚だしく制限され、公共性をもたぬ流言蜚語が蔓延し、民衆の政治的関心といふものがそのやうな流言蜚語によつて刺戟されてをり、そして彼等の意見が輿論として表現される公共の場所をもたないとき、公衆は解消する。
 公衆は解消されて集団としては「群衆」に還る。群衆は一層自然的な集団であつて、自然的な力に縛られてゐる。彼等を結合するのは知的な公共的な判断でなく、恐怖憤慨等の情緒衝動であり、また群衆は晴雨寒暖等の物理的環境に依存する。パイイは、パリの市長であつたとき、雨の日を喜び、空の晴れるのを見て悲しんだとのことである。
 尤も、公衆は歴史的範疇としては自由主義と結び附いたものであるとも考へられる。現代の社会においてはいはゆる公衆は「身体をもたぬ精神」であり、現実的な政治的力とはなり得ない、公衆に代つて階級的な物理的力を有する「大衆」といふものが現はれてゐると云はれる。しかしながら大衆も単なる群衆でないならば、或る公衆性を有するのでなければならないであらう。
 談話の公共性が存しないとき、ジャーナリズムが本来の機能を発揮し得ないとき、公衆或ひは大衆の公衆性は失はれる。それは何を結果するであらうか。深く考ふべき問題である。

                                     (三月三十一日)