停年制


 「硬骨」真鍋嘉一郎学士は、大学で内規として行はれる教授停年制に対して爆弾を投じ、衝動を与へた。これは、人事刷新とか官吏の身分保護の法律とかが問題になつてゐるこの頃の時世に挑戦したものとして「硬骨」の面白さもあらうが、その趣旨には賛成し難い。
 なるほど停年で退職するのは惜しい教授もある。けれどもそれは寧ろ例外であつて、この例外を認めるならば、他の遙かに多い例外はどうすれば好いのか。世の中には現在の教授以上の学力を持ちながら教授になれない者がいくらもある。高等教育を受ければ立派な学者となり得る素質のある者で、大学に入ることのできぬ者に至つては、無数にある。また適当な後任がないから退職しないと云ふのであれば、自分の在職中にそのやうな弟子を作らなかつたことが却つて自分の責任問題である。
 何も大学のみが学問の場所ではなからう。真鍋学土の如き「硬骨」の士が、停年後には純民間人として研究所の如きものでも作つて、民間の学問の発達に尽力されることを期待したいのである。教育の方面においても停年制は寧ろ大いに拡張されることが至当である。それは高等学校の如きにまで拡張されて好い。殊に高等学校では、あの学校インフレ時代に就任した教授の中には若朽も多く、今比高等学校教育不振の原因となつてゐると云はれるほどであるから、老朽と共に若朽の淘汰も必要であらう。
 この革新時代においては青年の力が用ひられねばならぬ。使はれない力が下層に鬱積してゐるといふことは、社会にとつて不健康な状態である。人事刷新は我が国においては一の生理的な必要であるとさへ云へる。最近統制といふことが頻りに唱へられ、それが必要な方面もあらうが、そのために国民が萎縮してしまつて、その力が使はれないで鬱積するといふやうな結果になつてはならぬ。
 かかる弊害は、我が国の如く自由主義が十分に発達せず封建的なものが多く残存してゐるところでは、特に生じ易いのである。この頃青年文学者の間で云はれてゐるデカダンスなども、自由に伸びることのできない力の鬱積といふ謂はば生理的な現象から来てゐると見られ得る。思想統制とか文化統制などにしても、かやうなデカダンスを益々甚だしくする危険を含んでゐる。

                                     (三月二十四日)