競技と政治



 次回のオリンピック大会が東京で開催されることは全国民の熱望であるが、今夏のベルリン大会は種々問題を惹起してゐるやうである。
 さきにはドイツにおけるユダヤ人排斥に絡んでアメリカでオリンピック不参加運動が行はれ、今度はドイツ軍隊のラインランド進駐に対してフランスでベルリン大会不参加の叫びがあがつてゐる。更にイギリスにおいてもオックスフォード大学では、ドイツ政府当局がスポーツに対して余りに政策的で、スポーツを政治的目的に、言ひ換へれば戦争の目的に従属させてゐるといふ理由で、ベルリン大会には参加を拒否すべきであるといふ論が起つてゐるとのことである。
 スポーツが政治的目的に従属させられるのは確かに好ましくないことである。スポーツは戦乱時代の武技が平和の時代に変質したものであるとすれば、今日それが戦争の目的に使用されることはスポーツの先祖返りとも云ふべきものであつて、このやうなアタヴィズム(先祖返り)は今日の如き反動時代には他の方面においても多く見られる現象である。
 しかしたとひドイツの政治的行動には非難さるべきものがあるにしても、その理由からオリンピック大会に参加しないといふことは、自分自身スポーツを政治化するものであつて、賛成できない。寧ろ現在の如き世界の情勢においては、スポーツを通じてでも国際親善の行はれることが望ましいと考へられる。政治と競技との混同は避けたいものである。
 ナチスの理論家カール・シュミットは、政治的なものを規定する根本概念は、敵・味方といふ範疇だと述べてゐる。しかるにオリンピック競技の淵源をなした古代ギリシアにおいては、凡ての生活が競技的な根本性格を有し、ギリシア人とギリシア人との血腥い衝突にあつても戦ひは「アゴーン」(競技、試合)であり、相手は試合の相手であつて「敵」ではなかつた。
 社会の統一が維持されてゐる間は、政治も何等か競技的性格を具へてゐる。自由主義の華かであつた時代には、政治におけるスポーツマンシップについて屡々語られた。ところが社会における内部的対立が激しくなると、政治はあらゆる競技的性格を失ひ、全く敵・味方の関係で規定されるやうになり、スポーツマンシップなどもはや問題にならない。そしてスポーツも、体操の如きも、政治的目的に従属させられることになる。これは独りドイツのみのことでなく、あらゆるものが政治化する必然性を有する現代の特徴的傾向である。


(三月十七日)