社会の常識
或る種の改革家は社会の常識を蔑視する。エミール・ファーゲによると、あの空想的社会主義者といはれるプルードンなど、さういふ人であつた。
プルードンは、或る観念が民衆の間に拡つてゐるものであるといふだけで、もしくは彼の同時代の大多数に信じられてゐるものであるといふだけで、殆ど本能的に、その観念をくだらないものであると結論した。この民主主義者はその点で甚だ貴族主義的な精神をもつてゐたと云ふ。
かやうな貴族主義は、改革家が社会的組織の聯関の客観的認識を基礎としないで、道徳的感激乃至確信から出発する場合、極めて普通である。彼等は社会の常識を軽蔑して、ひとり自ら高しとすることによつて自己の道徳的感情に媚びる。従来の観念論者が好んで口にした精神的貴族主義といふものも、社会の常識のうちに含まれる真理を無視して個人主義的立場に立つてゐる。かやうな貴族主義は、社会の常識がそれに反抗すればするほど、自ら悲壮になり、興奮を加へるのをつねとする。
もとより社会の常識が決してその儘全部真理であるのではない。しかし民衆が絶対的に間違ふことはあり得ず、大多数の人間が真と信ずるもののうちには一つの中心的な真理が含まれてをり、多くの蔭に包まれて一つの内的な真理が横たはつてゐる。少くともそこには或る瞬間にとつての相対的な真理、その時に適切に役目を果し得る真理が含まれてゐる。
最近我々は、社会の常識が如何に大きな力を有するかを二度まで経験した。しかもそれが二度とも消極的な形でその圧力を現はしたことに注意しなければならぬ。
一つは先般の総選挙である。政友会の近来の態度に対する不満が消極的に民政党の勝利となつて現はれた。無産党の進出は、今日の風潮に対する大衆の批判が、これもまた消極的抵抗の形をとつて、現はれたものである。次に二・二六事件の際に、国民が騒がずに静かにしてゐたといふことも、その力強い批判を消極的に現はしたものである。
あらゆる方面に亙り徹底的な改革が要求されてゐる。このとき大衆の批判がただ消極的にしか現はれ得ないといふことは遺憾である。先づそれが自由に積極的に現はれるやうに改めなければならぬ。炯眼な政治家は少くとも消極的な形で現はれた社会の常識のうちに隠された積極的な真理を捉へて、改革を断行すべきであらう。道徳的改革家の知らず識らず陥る貴族主義は空想的に終り易いのである。
(三月十日)