詩の復活
詩の復活は最近注目すべき現象である。もちろんそれが確固たる地盤を獲得したと云ふにはまだ早いが、この頃同人雑誌などにおいても詩が以前には見られなかつた位置を占有するに至つたことは事実である。
この現象はいろいろに評価されることができるであらう。思想が弾圧されてゐる結果、或ひは思想が無くなつた結果、いづれにしても文学が内容をもち得なくなつたために、形式的な、感覚的な文学として詩が復活するやうになる。詩の復活は思想的に無内容な新形式主義もしくは新感覚主義の文学の流行の先駆にほかならない。このやうな見解も成立するであらう。
かかる見方にも一理はあるが、私はそれに全部は賛成することができぬ。詩の復活が何を意味するかについての意見の相違は、恐らく、知識階級の、特にその若い世代の最近の精神的情況を如何に考へるかといふことに依存するであらう。そして私の見るところによれば、若い世代は、あの不安の時期の後にこの頃、極めて徐々にではあるが、確実に立直りつつある。かかる立直りは注意深く観察するとき種々の徴候において現はれてゐる。詩の復活も立直りつつある知識階級の一つの表現と解することができる。
文学においても心境小説などの復活と詩の復活とでは、そこにおのづから意味の相違がある。詩の復活がたとひ感覚的な、形式的な文学への傾向を示すとしても、そこには少くとも近代性への意欲がある。新しいモラルへの意欲が動いてゐる。自己の感情に形式を与へようとする意欲がある。いはば新しいクラシシズムへの意欲が含まれてゐる。詩の文学における位置は、自然科学における数学や哲学における論理の位置に比較することもできるであらう。本格的な文学の復興は詩の復興に俟たねばならぬ。私は詩の復活をもつて本格的な文学に対する要求が次第に現実的になつてきたことの一証左と見、そして一般的には漸く立直りつつある知識階級の一表現と見ようと欲するものである。
もちろん現在の詩がどれほど新しいもの、積極的なものを示してゐるかは疑問である。なほ思想性が足りないことは確かであらう。しかし詩の復活はそのこれ自身少くとも心の一定の態度を示してゐる。我々はそこに新しい出発を見てはならないであらうか。
春はまだ遠い。けれども我々は希望を棄ててはならない。希望は徳である。希望を持つといふことの大きな徳であることが今日ほど忘れられてゐる時代はないのである。
(三月三日)