試験の明朗化


 小学校から大学まで、あらゆる学校において試験の行はれる時が来た。生徒学生はもとより、家庭にとつても、まことに憂鬱な季節である。
 アランの『教育論』は学校の先生がたに読んで貰ひたい書物の一つであるが、その中で彼は試験についても意見を述べてゐる。「試験は意志の訓練である。この点においてそれはすべて善い」と、アランは云ふ。自分はあの場合臆病であつた、心が乱れてゐた、などといふ弁解は悪しき弁解であつて、人間のそのやうな欠点は最も大きな欠点だ。平生は完全に答へることのできる問題を、試験の日に間違へたり、最初に正しい答を見出しておきながら突然逆上したりするやうな子供を、私はどう考へよと云ふのか。それはちやうどボール紙で作つた猪に対してよく練習した射手が、自分の生命を救はねばならぬ日に適確に撃つことができぬのと同じである。知つてゐて、知つてゐることを使はないのは、知らないのよりも一層悪い。知らないことは精神の如何なる悪徳をも現はさない。これに反し感情の動揺による過失は教育されてゐない精神を、いな、正しくない精神をすら現はすのである、とアランは書いてゐる。
 私は試験の単純な反対者ではない。それには意志の訓練、或ひはその他の道徳的効果も含まれてゐる。しかし現在の日本の憂鬱な試験を見れば、アランにしても先づ大いにその弊害を指摘したくなるであらう。あらゆる徳は心の朗かさを予想する。試験から教育的意義を期待するならば、何よりも試験を明朗化しなければならない。
 簡単に云ふと、試験のうちにスポーツの精神が、コンクールの精神が導き入れられなければならない。試験のスポーツ化、もしくはコンクール化は今日我が国の状態においても或る程度まで不可能なことではなからうと思ふ。現在の制度の儘では試験は男らしい競争心の代りに陰険な敵対心を、優秀な者に対する讃美の代りに嫉視を、協同の精神の代りに利己主義を、要するに道徳的にも種々の悪徳養成の源泉となる。
 試験が一般に有害であるのではない。或る種類の、或る方法による試験は智育上徳育上必要であらう。弊害は今日の如く試験が教育的目的以外のものに制約されてゐるところにある。即ち社会的条件に原因する入学の困難、就職の困難は、教育機関を単なる入画準備機関、或ひは就職機関と化し、試験もそれに従属せしめられてゐる。かくして試験の明朗化は、カンニングの取締の如き「試験粛正」によつて達せられ得るものでなく、根本において社会の明朗化に俟たねばならぬ。
 入学の困難、就職の心配が有しなかつた昔は、試験制度の弊害も問題にならず、試験勉強家は「点取り虫」として軽蔑された。


(二月二十五日)