政治と教育



 粛正運動の圧力によつて選挙に対する国民の関心が萎縮した観があるのに鑑み、政府は漸く政治教育の必要を悟つたと云はれてゐる。
 元来、選挙粛正は選挙そのものに関しどこまでも手段であつて、目的であるのではない。手段を目的であるかの如くやかましく云ふことは、官僚的瑣末主義に属してゐる。選挙が政治教育の絶好の機会であることは常識であるが、政治教育が行はれるためには政治の動向と目標とについて明確な認識が必要である。現在の政治家は果してそのやうな認識を有するのであらうか。寧ろそれについて何等確固たる信念がない故に、手段に過ぎぬ選挙粛正を恰も目的であるかの如く幻想することになつたのではなからうか。試験におけるカンニングばかりやかましく云つて、答案に対して何等の規準も有しない者が教育家と云へるであらうか。
 選挙に限らず、政治はすべて教育である。これは詭弁でなく、単なる哲学論でもなく、社会の上昇期においては政治家は皆このことを意識してをり、またこのことをつねに実行してゐるのである。政治が教育であることをやめるのは、社会の発展が行詰つた証拠である。
 かう云はれてゐる。凡庸な政治家は、人間が彼の国家にとつて必要であるやうな風でないことを不平がるのをつねとする。一層善い政治家は、与へられたままの人間から彼の欲する国家形態を組合せる術を心得てゐる。しかし最大の政治家は、単に政治形態のみでなく、この政治形態のうちに、またこの政治形態によつて、このものを担ふに適する人間のタイブを、創造的に作り出すものである。
 最大の政治家は同時に最大の教育家である。なぜなら彼は大衆から新しいタイプの人間を創造的に作り出すものであるから。しかも人間は社会から生れるのであるから、新しい人間を作るためには社会を変化することが必要である。真の教育家は彼の教へることに大衆の関心を力強く引寄せることを知つてゐる。なぜなら彼は大衆のうちにある要求を客観的に表現し形成することを目的とするものであるから。
 それは抽象論でも理想論でもなく、歴史の事実に合致したことである。社会の上昇期においては政治家はつねに新しい社会形態に適するやうな新しい人間を作ることに努力してゐるのである。抽象的形式的に選挙粛正を唱へ、国民の政治的無関心を不平がつてゐる現状は、今日の社会の行詰りの一つの象徴にほかならない。


(二月十八日)