国民的と国際的



 文学者の中にも、本国よりも外国で先づ一層有名であるやうな人がある。アナトール・フランスなどさうであつたと云はれるし、アンドレ・ジードの如きもさうであると云はれるかも知れない。先年のゲーテ百年祭は我が国でもずゐぶん盛大に行はれ、現在また邦訳ゲーテ全集が刊行されつつあり、ゲーテに関する勝れた研究書も次々に出版されてゐる。しかるにシルレルは、今日のドイツで国民的詩人として騒がれてゐるに拘らず、日本ではそれほど人気がないやうである。
 我が国において所謂大衆文学は純文学に比して遙かに多数の読者を持つてゐるが、外国人が読む段になると、恐らく純文学の方が読まれるに違ひない。このやうな区別が純文学そのものの内部においても認められるのである。一般に外国人が好む作品は、純粋に国民的なものよりも国際的色彩の濃いものであらう。もちろんゲエテがドイツ的で、ジードがフランス的であることは確かである。仮に全く国民的特色を含まぬ文学があつたとすれば、それは外国人にも読まれないに違ひない。しかしシルレルとゲーテとを比較すれば、そこに国民主義的と世界主義的といふやうな差別がある。
 日本の文学や思想も今後大いに世界に飛躍しなければならぬとすれば、このやうな問題についても十分考へてみなければならぬ。これまで日本の物はエキゾチシズムから外国人に読まれてゐたために純粋に国民的なものが却つて彼等に喜ばれるといふ傾向があつたが、今後はそれも変つてゆくであらう。日本人の作品がたくさん外国に翻訳紹介されるやうになれば、諸作家の文壇的地位にも多少変動が生ずるのではないかと思はれる。
 学問でも藝術でもあまり国民主義的になると、外国人には無用になり、歓迎されなくなる。ドイツは書籍の輸出が一つの重要な貿易であることを誇りにしてゐたが、それがナチスになつてから、近年次第に減少してきたことを、統計的数字は示してゐる。ここにも知識の国際性が窺はれる。
 余のことは問はず、少くとも文化上の侵略に関しては国民主義には大きな制限がある。日本文化の特殊性については固より何等の問題も存しない。併し我々の文化が単なるエキゾチシズムから外国人に喜ばれるといふのでは躍進日本の恥辱である。我々の文学や思想がその本質的普遍的な価値に従つて彼等から歓迎されるやうに努力しなければならぬ。

     (二月十一日)