粛正時代
今日は節分。昔ながらの豆撒きは私どもの心をも何となくなごやかにする。人生に祝祭は必要だ。春の立ちそめるのを祝うて、「鬼は外、福は内」と愉快に一夜を過すのも結構であらう。
本年は選挙粛正と並んで宗教粛正が唱へられ、豆撒きに対してもいろいろ厳しい取締が行はれるやうである。これも確かに必要であるが、他方またこの頃官僚的形式主義によつて民衆の生活があまりにも窮屈にされ過ぎてゐるところも少くないやうである。
尤も少し心を澄して、「鬼は外、福は内」と年男が叫ぶ声を聞くとき、私は人間性のどん底の叫びを聞くやうに感じて慄然とせざるを得ない。幸福、むしろ幸福に対する人間の欲望の如何に激しいかを思ふのである。
宗教は幸福に対する人間の限りない渇望を出発点とする。もとより宗教はそれ故にこそ幸福についての高い観念をもつてをり、現世的幸福を人生の目的と考へることを欲しないであらう。迷信邪教の排撃は最近の流行題目となつてゐる。いはゆる類似宗教が病気の治癒その他の現世的利益を説くことをインチキとして宗教家は攻撃する。けれども今日多くの神社仏閣は、「鬼は外、福は内」と呼ぶ声のうちに露骨に現はれてゐるやうな現世的利益の迷信によつて繁昌してゐるのが事実である。
無邪気な民衆は問はず、社会の幸福に対して責任のある政治家は果して迷信的でないと云へるであらうか。先勝や大安の日に立候補の届出が多かつたといふが如き、御幣担ぎのしるしにほかならない。選挙粛正運動でさへも今日は宗教化されてゐる。認識や理知を離れて、政治も次第に迷信の要素を加へつつあるのではなからうか。
宗教粛正のために藝妓、女給、ダンサーなどが年男になることは禁ぜられた。しかるに伝へられるところによると、今度東京では山の手十二花街組合がちやうどこの節分の日から藝妓にお座敷で「選挙音頭」を唄ひ踊らせることに申合せが出来たさうである。お祭騒ぎであつても結構な豆撒きは厳格にされ、他方厳粛であるべき選挙はお祭騒ぎになる。宗教家も、政治家も、官吏も、それぞれ自己にとつて第一義的なことは顧みず、末梢的なことにのみ力を入れてゐるのが「粛正時代」といふのであらうか。
(二月四日)