「挙国一致」
各々の時代において社会はそれぞれ自分に特徴的な特別の言葉を持つてゐる。我々の時代におけるこのやうな特別語彙を蒐集することは、たとひ現代の真の政治史や文化史の認識に役立たないにしても、風俗批評の見地からでも興味ある材料となるであらう。
最近政友会は、すでに数多い現代の特別語彙に新たな一つを加へた。「擬装的挙国一致」といふのがそれである。これは言葉としても「類似宗教」などといふ語と好一対をなし、まことに面白い。
ナポレオンは警句の天才であつた。今日常用されるイデオロギーといふ語の実用的意味を初めて作り出したのもナポレオンであつた。政治家や軍人には特殊な言葉の天才がなかなか多い。いよいよ選挙となれば、今日の政党にだつてそのやうな天才がいろいろ現はれることであらう。
ともかく今度の選挙の特徴は「挙国一致」の争奪戦にあるかのやうに見える。政府もそれを云つて議会解散を行つた。民政党もそれを唱へてゐる。そして政友会も政府の擬装的挙国一致を攻撃して、みづから挙国一致を叫ぶ。ただ政治的警句は必ずしも論理的でない。その意味が曖昧なところに却つて実際的効果があるのであらうか。
政府が挙国一致のために議会解散を行はねばならぬとすれば、それは政府が政党を地盤としてゐないからである。政友会や民政党が挙国一致を云ふとすれば、その前提には政党連繋が必要と思はれる。けれども政党連繋は少くとも選挙戦のスローガンとしては魅力がない。しかも政党人の殆ど誰もが実際に考へてゐるのは、選挙後たとひ岡田内閣が退却しても、やはりこの式の挙国一致内閣が出来るに過ぎないといふことである。選挙における政党の問題は多数党であつて挙国一致でないであらう。憲政の常道は多数党内閣であつて挙国一致内閣ではなからう。しかも現実においてはただ挙国一致のみが問題になり得る。それが非常時なのである。
「多数者」から「挙国一致」へ―それはただ喜ぶべき量的増加を意味するに過ぎぬかのやうに見える。しかし実は、それは量の問題でなく質の転化である。だから挙国一致は政党政治の否定であることができる。挙国一致は場合によつては独裁政治の別名となり、従つて挙国一致は場合によつては真の多数者としての「大衆」に対立するものであることができるのである。
擬装的挙国一致と云はれるが、挙国一致はとかく擬装の名手である。これは論理であり、また世界歴史の現実によつて既に示されてゐることでもある。我々の望むのは強要されない下からの挙国一致である。政府も政党も挙国一致の論理を先づ明示せねばならぬ。
(一月二十三日)