新世代の意欲



 年末から年頭にかけては、あらゆる方面において回顧と展望がなされるならはしとなつてゐる。今度もこの種の論説がたくさん現はれたが−そのうち私は新進科学者のピカ一、物理学の菊池正士氏と数学の末綱恕一氏との文章を特に興味深く読んだ。
 世界の物理学界は現在非常な発展をなしつつあるのに、日本人の力がその中にどれほど貢献されてゐるか。皆無と云つて差支へない。一般に日本の科学は専門以外の人達によつてひどく買ひ被られてゐる。他のことでは日本は何でも一流なのか知らないけれども、科学少くも物理に関する限り日本は二流の下或ひは三流の国である。かう云つて、菊池氏は研究家の無責任と怠慢とを戒めてゐる。
 科学のほかのことに関しても、日本は何でも一流であるのではない。この頃の民族主義的風潮が自国のものは何でも最善であるかの如く国民に買ひ被らせるやうにする傾向があるとすれば、極めて不真面目なことと云はねばならぬ。
 近年の国粋運動の結果、科学的業績に関しても日本的特質を特に問題にして、日本民族の科学的能力について大真面目に議論する者があるのに対して、末綱氏は、かくの如き議論は時期甚だ尚早であると云ふ。我が国に仏教が渡来して日本的仏教が出来上るまでには六世紀を要した。しかるに我々が西洋の学問を始めて以来、『解体新書』から数へても百六十年ばかりしか経過してゐない。かかる僅かな期間に日本人の科学的能力を判定すること、殊にその民族的特徴を限定することは不可能であり、まして所謂日本的科学を要求することは全く無意味である。すべては今後の歴史に俟たねばならぬ。慨歎すべきことは国粋運動がメートル法等にまで累を及ぼすが如きことであり、また非常時と称して科学の利用の方面のみが強調され、純理論的方面の軽視されることである、と末綱氏は述べてゐる。
 確かに日本人の科学的能力、科学における特質はなほ歴史的に未知数である一般に西洋文化の移入以後、我々が如何なる大きさと高さとを有する文化を創造し得るかは、今日その実験の過程中にある。我々の世代はこの実験に身を投じなければならぬ。まだまだ西洋文化の弊害などについて議論すべき時期ではない。支那やインドの文化の伝承から日本人が何を作り得るかは、我々の祖先によつて既に或る意味で実験済みである。しかるに西洋文化に関しては、それはなほ全く実験の途上にある。能、歌舞伎、その他、過去に如何なる勝れたものを有するにしても、今後それをそのままの形式で発展させることは不可能であらう。
 新しき世代よ!身をもつてする実験者としての自己の意欲を確立せよ!

      (一九三六年一月七日)