歳末風景
歳末の風景はあわただしい。街は買出しの最中である。ネオンサインの色はいよいよ毒々しく、いよいよその数を増してゆく。看板、旗、幟、ちんどん屋、その他、その他。日本の街を見るとまるで植民地のやうだといふ感じは、洋行帰りの者が誰でも感じることであるが、その植民地的風景が歳末になると、いよいよ濃厚になり、露骨になる。
しかし見よ、そのあわただしい街の中に、毒々しいネオンサイン、その他の下に、昔ながらの伝統に従つて、商家の入口には軒並にすでに門松が立てられてゐるではないか。何といふゆかしさであるよ、と或る者は云ふであらう。何といふ不調和であるよ、と他の者は云ふであらう。
そして一層思索的な人は、そこにも日本文化の根本的な特徴と考へられる重層性(和辻哲郎氏)の一つの例を見るであらう。洋風の商店の内には角帯をしめた番頭がをり、外ではコンクリ−トの道の上に門松が立てられてゐる。亭主は洋服で、細君は和服で、子供はまた洋服で買物に出てゐる。日本文化の重層性を示すものと考へられるであらう。
仏教の発達は神社崇拝を廃棄しなかつた。大抵の家は神棚と仏壇とを共に持つてゐる。また同じ展覧会で、第一部には日本画が、第二部には西洋画が陳列されてゐる。かやうなことは、ドイツ人の評して云つた如く、日本が文化の並在の国であることを示すものであるか。それとも、そこには単なる並在以上に深い統一があつて、むしろ重層性を意味するものと解すべきであるか。
我々が日本画を鑑賞する場合と西洋画を鑑賞する場合とにおいて心の統一がないとは云へないであらう。だから重層性が認められる。しかしそれは心の上での統一であつて、客観的に表現された文化の上での統一ではない。従つて客観的に見て単なる並在或ひは折衷主義と評されて致し方のないところがあることも事実である。たしかに、客観的に矛盾したものを心の上で統一することにおいて日本人は此類のない才能を持つてゐる。だから現在のやうな矛盾した社会においても人々は案外平気でゐられるのである。それは日本人の美点であると云ふことができる。しかし他方において、そのやうな並在にも、重厚性にも満足することなく、単なる折衷とは異る真の綜合的統一を客観的に示すやうな文化が作られることも甚だ望ましいことではないか。歳末のあわただしい風景を見ながら私はこのことを特に痛切に感じるのである。
(十二月二十四日)