日本文化の方向



 故島地大等師は三国仏教を比較して、インド仏教は戒律支持に特色があり、支那仏教は慧学の発展に特色があり、日本仏教は定学の伝持に特色があると述べられた。即ちインド仏教が倫理的なことを、支那仏教が哲学的なことを特色とするに対し、日本のそれの特色は仏教を宗教として純粋化した点にあると云へるであらう。日本においてはかやうに仏教は純粋化されると共に、実際化され、単純化された。単題目や単念仏、単信心、単円戒等の思想はその傾向を現はすものである。
 ひとり仏教のみでない。支那文化にしても、日本において純粋化されたが、しかし同時に実際化され、単純化されて、そのとぼけた面白味、馬鹿気た大きさをなくしたと云ひ得るであらう。かく純粋になるが、その代りに小さくなることが、少くとも過去の日本文化の一特質であるやうに見える。俳諧は発句に、長歌は短歌に、純粋化されると共に詩形を小さくした。能は謡に実際化され、単純化された。
 純粋化されることはそれ自身としては好いことである。しかし能を劇の方向に発展させるやうな試みが真面目になされても好かつたであらう。短歌や教句に純粋化された詩を再び逆の方向に更に大きな詩形に発展させる努力が真剣になされても好かつたであらう。大きさの足りないのは島国の特徴であつたであらうか。
 日本帝国主義の雄飛を欲する者は、日本の精神的文化の同様の偉大さを望むべきであらう。然るに事実は、皇道主義等の美名のもとに、純粋性すらない実際化と単純化とが種々の方面において行はれてゐるのである。例へば類似宗教の驚くべき流行は、現在の社会不安に基く民衆の社会心理の反映であるが、ここには現在の社会情勢に相応して宗教の純粋性といふものはなく、ただ実際化と単純化とによつて民衆を引き寄せてゐるのである。類似宗教に弾圧が加へられるにしても、他方において日本精神の美名のもとにやはり非合理的な、実際的な、単純な思想が宣伝されてゐるのでは、役に立たないであらう。科学思想の発達こそ却つてそれらの類似宗教に対する強力な武器である。
 今日我々に必要なことは、純粋性を或る程度犠牲にしても、西洋文化を学ぶことによつて知的構成力、理論的組織力を養ひ、我々の文化に大きさを作ることでなければならぬ。日本精神の純粋性に固執してゐる間に、日本人の専売のやうに云はれる東西文化の綜合といふやうな組織的な構成的な仕事も、他に先鞭を着けられてしまはないとも限らない。


  (十二月十七日)