「養老」の伝説



 改訂国定教科書にはかの有名な「養老」の伝説が削除されてゐる。それは酒好きの病父に酒を飲ませたい一念から孝行息子が汲んだ水が美酒であつたといふ話で、従来久しく国語教科書に親孝行のかがみとして載せられてゐたものであつた。禁酒運動の人達は、親に酒をすすめるのは真の孝行でないといふ理由で、この話を教科書から削除せよと主張した。然るにそれを聞いた養老の瀧の地元では承知せず、酒造組合などとも呼応して、その復活を文部省に陳情したといふ事実もあつた。
 養老の伝説の削除について禁酒主義者の運動がどれほどあづかつて力があつたのか、私は知らない。文部省側の意見として伝へられるものによると、この削除はその運動の影響によるのでなく「養老」は昔話物として書いたのではいささか妙なところがあるから省くことになつたのだといふことである。これが誤伝でないとすれば、これまで小学校では養老の詩を「伝説」としてでなく「実話」として教へてゐたのであらうか。もしそれを伝説として教へてゐたのであれば、禁酒主義者の反対も理由が薄らぐわけで、この有名な伝説をしひて子供の頭からなくしてしまはねばならぬ理由もなからうと思ふ。好くないのはむしろ伝説と史実とを混同することである。
 親に酒を飲ませることが真の孝行であるかどうかといふ議論になれば、医学的問題でもあるが、道徳的問題としては、少し考へるといろいろ煩瑣道徳的問題を引出してくることである。国語教科書の中にある伝説から煩瑣道徳的問題を引出してくるにもあたらず、またもしその議論になれば、国語でも修身でも教科書には突詰めると煩瑣道徳的議論に陥らねばならぬ材料が遺憾ながら多過ぎるやうに思はれる。伝説は純粋に伝説として教へるがよい。
 伝説と史実とを区別せよといふことは、伝説をすべて破壊せよといふことではない。伝説には伝説としての深い意味がある。私はむしろ我が国の少年にとつて伝説が豊富でないことを悲しみたいほどである。西洋で酒の神ともされたディオニュソス伝説は如何に多くの藝術と思想との源泉となつてゐるか。
 しかし他方近代歴史学の批判的方法を尊重し、これによつて史実と伝説との区別を明確にすることが特に大切である。ところが我が国の歴史に関しては一般国民にとつてその区別があまり明瞭に示されてなく、しかも今日では益々その混同が行はれてゐはしないであらうか。養老の伝説を史実と見るが如きことは、むしろ無邪気な部類であるかも知れない。

(十二月十日)