悲劇を知らぬ国民



 日本文学には悲劇がないと云はれる。樗牛であつたかが、世界的な悲劇文学と評した近松にしても、義理人情の世界を多く出でず、あまりに美しいロマンスとあまりに速かなあきらめとがあつて、真に悲劇的であるかどうか、問題である。
 悲劇を知らぬ日本人は楽天的だと云はれる。この楽天性にどれほどの根拠と大きさとがあるのか知らない。一方日本人は神経質でもあり、またその楽天性にはあきらめの要素も多く含まれてゐる。殊に今日の如き時世においてひとは真に楽天的であり得るか、疑問である。
 それにしても日本人は一種の楽天家に相違ない。我々はどうなるのか。「どうにかなるだう」と考へる。日本の将来は。 ― どうにかなるだらうと考へる。国家の財政は、支那問題は。 ― どうにかなるだらうと考へる。日本の国策も突詰めれば、この「どうにかなるだらう」を多く出ぬのではないか。
 つまり追求が足りないのである。日本人の楽天性は風土にも関係するであらう。そのうへ我々の歴史は現在まで大きな悲劇を経験しなかつた。これは幸福なことに相違ない。しかし人間の世界における不幸はその実幸福であり得るやうに、幸福も他面不幸であり得る。悲劇を知らぬ者には追求が足りない。悲劇的精神は追求の精神であるとも云へる。
 ギリシア人は世界最大の悲劇文学を作つた。そのギリシア人は同時に世界最高の哲学を作り、そして科学の歴史の先頭に立つた。彼等の科学も哲学も、運命の前に問ひ続けて立停まる彼等の悲劇的な追求の精神と相通ずるところがあつたであらう。
 幸か不幸か、大きな悲劇を経験したことのない我が国民は、今日も「どうにかなるだらう」で済ませてゐる。もちろん若い世代は彼等の生活経験に強要されてそれほど楽天的でない。いはゆる不安の思想は彼等の心に深く巣ひ、悲劇的精神を形成するやうに見えた。それは、その追求が単に自己の内部に向つて社会的現実に向はなかつた点で非難さるべきであつたにしても、ともかく我々に悲劇的な追求の精神を味はせた点では意味があつた。しかしそれも今では「流行遅れ」になつてしまつたかのやうに見える。不安は克服されたのであるか。真の再建の代りに日本人伝来の「どうにかなるだらう」に還つたのではないか。
 もし今後なほ何時までも、どうにかなるだらうで済ませ得るとすれば、日本人こそ、果して偉大と云はれ得るか疑問であるが、ともかく幸福な国民である。


     (十二月三日)