倫理の喪失



 今日の社会及び人間生活を見て痛切に感ぜられるのは倫理の喪失といふことである。現代の多くの青年によつてほんとに掴まれてゐる倫理はデカダンスぐらゐのものであるかも知れない。もちろん今日も、いな特に今日は、修身教科書的倫理や修養論は大いに説かれてゐる。しかしそのやうな通俗倫理は真の倫理でなく、これに此してはデカダンスが寧ろ人間性により深く根差す故により倫理的であるとさへ云へるであらう。
 現在の社会不安、生活不安、思想不安において躓いたとき、青年たちは何に彼等の行為の拠り所を求めるであらうか。私は次の如きことが今日次第に著しくなりつつありはしないかと思ふ。
 先づより功利的な青年は小学校以来習つてきた倫理、儒教的倫理に拠るであらう。併し彼等はそれに真に共鳴してゐるのではない、むしろそれはどうでも好いことなのである。ただそれを守つてをれば非難もなく、立身出世の便宜もあるからである。この場合彼等にとつて好都合なことは、かかる儒教的倫理はヒューマニティ(人間性)に関はることが少く形式的なむのである故に、精神的苦悶もなく全く形式的に従ひ得るといふことである。私は固より支那における礼の思想が重要な特色を有すること、また如何なる倫理も礼的なところを有せねばならぬことを認める。しかし詳しい議論は措いて、ともかくそれが人間性を抜きにして形式化される傾向を多く有することは争はれない。それがまた今日もなほ日本の政治及び倫理的生活の官僚的性質を助けてゐる一つのカではないかと思ふ。
 他のより思索的な青年は東洋古来の「無」、支那思想の、特に仏教思想の無に還るであらう。そこではいつでも安心立命することができる。これは確かに我々衆洋人にとつて大きな力である。この無はあらゆるものを自己のうちに入れることができる。その代りにそこでは結局あらゆる現実がそのまま骨定され、従つて現実に対する批判がない、つまり倫理がない。特に文化に対する積極的な倫理が抜けてゐる。仏教は偉大な宗教である。併し仏教本質論はともかく、少くとも今日の仏教は何か特別の倫理を持つてゐるであらうか。寧ろあらゆる現実に随順して現実批判の倫理を有せず、倫理を説くとすればやはり修身教科書的倫理であるといふのが実状ではないか。
 かくて敢へて云ふ、倫理は喪失したと。いはゆる日本主義は国際的普遍性を有する人間的倫理となり得るか。私は何物の悪口をも云はうとは欲しない。しかし新しい倫理の確立は我々が今後真の文化を作つてゆく上に特に重要なことであるのを感ぜざるを得ない。


 (十一月二十六日)