スポーツと健康



 スポーツの秋だ。どこでも運動会が開かれた。神宮体育大会もちやうど終つたばかりである。そこでは様々な美技妙技が見られ、種々の新記録が作られた。まことに新興スポーツ国日本の偉観であつた。
 スポーツは明朗だ、秋の空のやうに。卓越せる者がなんの嫉妬も成心もまじへずに讃美され喝采されること、スポーツの如きは稀であらう。この陰惨な世界情勢のうちにおいて、スポーツは我々の心を明朗にしてくれる恐らく唯一のものであらう。
 この明朗なスポーツの秋に、国民健康の憂慮すべき状態を想ひ起すことは一種の不道徳であるやうにさへ感ぜられる。だが現実は回避さるべきでない。学生、生徒の近親眼が驚くべく多数であることは、さきほど報告されたばかりである。結核患者の数はどうであらう。以前はしばしば話題に上つた神経衰弱の如きに至つては、今では問題にもならないほど普遍的になつてゐるのではないか。
 大衆の健康状態は改善されたか。女工の健康状態は。労働者の健康状態は。インフレ景気と云ひ、軍需景気と云ふも、かかる景気は労働する男女の健康状態の改善に何等か貢献したのであるか。その反対でなければ幸ひである。
 スポーツは単に少数の人間を目標とする秀才教育の如きに陥り易い。一人の天才が生産した精神的文化は全人類共同の財産となり得るであらう。しかし健康はただ各人のものである。我々はそこに身体とその健康との有する或る宗教性をさへ認めることができる。宗教においてのやうに各人が銘々その責任を負はねばならず、そしてその前ではあらゆる人が平等である。
 我が国の文学者が比較的短命で、その活動の期間も短いことについて、彼等の過労が指摘されてゐる。過労!このものこそ単に文学者のみでなく殆どすべての人について云ひ得ることではないか。過労―それは現在を見れば病気ではない。しかしそれは慢性的だ。そしてそれはその結果を将来に向つて徐々に現はしてくるものである。かかる過労の社会的原因がどこにあるかを考へねばならぬ。
 健康は最も日常的なものである。もしも日常的なものを尊重することが東洋思想の特色であるとすれば、我々はこの点において東洋人に還ることが必要であらう。またもしも精神を主とし肉体を軽んずることが東洋思想の特色であるとすれば、我々はこの点において東洋的であることから脱却しなければならぬ。                     


(十一月五日)