東洋人に還る



 支那人は利己主義者だと云はれる。尤も、彼等は必ずしも近代的意味における個人主義者でなく、家族主義的なところをなほ多分に持つてゐるであらう。併し支那人は国家のこと政治のことなど殆ど考へないで、自分や家族の安全ばかりを考へてゐるといふ点で利己主義者であると云はれる。彼等には信頼し得る国家や政治が有しなかつたために、何はともあれ一身の安泰を計るやうになつたと見られてゐる。このことが道徳的に理由づけられて、明哲たる者は保身の道を講ぜねばならぬといふが如き道徳的イデオロギーを生じたとも考へ得るであらう。 しかるに今日我が国において、特に知識階級の間では、各自がそのやうな保身の道を考へることが次第に著しくなつてきたのではないかと思はれる。今のやうな時代には何も云はないで黙つてゐるのが賢明だ、と一人は云ふ。今のやうな時代には論文などは書かないで随筆でも書いてゐるのだ、と他の一人は述懐する。今のやうな時代には理論など云はないで歴史でも調べてゐるのが得策だ、と更に他の一人は勧説する。かかることが知識階級の思想的混迷ないし無確信によることは云ふまでもない。しかしそこには必ずし思想的苦悶もしくは知的絶望があるのでない。却つてそのことは、我々がいつのまにか承け続いでゐる明哲保身のイデオロギーとも云ふべきものによつて、知らず識らず道徳化され、合理化されてゐる。これは注目すべき事態である。
 現在、大多数の学生の脳裡に去来するのは何よりも就職問題である。しかも野心的な成功の望みを絶たれた彼等は、むしろただ、無意識的にせよ、伝来の明哲保身のイデオロギーに助けられて、思想問題や社会問題の如きに深入りする危険を避け、先づ就職だと考へるのである。人々は東洋人に還る、東洋的イデオロギーに還る。しかしこれをもつて東洋主義の勝利と考へることは、女優が式部袴を着けて外出するやうになつてから、それを模倣して、近年女学生生の袴姿が流行してゐるのを見て、日本主義の勝利と考へるのと同様に皮相的であらう。人々は積極的に東洋主義に賛成してゐるのでも信頼をおいてゐるのでもない。むしろ思想的自由の抑圧、社会的希望の喪失、現在の政治に対する懐疑、等々が、人々をして知らず識らず、消極的に明哲保身のイデオロギーに還らしめたのである。それが時世への追随を示してゐるとしても、実質は利己主義にほかならない。かくの如きことは国家のために慶賀すべきことであるか。
 嘗てニーチェは、新しい人間の出生に対する熱意から、西欧的人間の徹底的な批判者として現はれた。今日我々の間では東洋的人間の根本的な批判が必要ではないか、真に新しい日本人の生れんがために。


(十月二十二日)