「汝自身を知れ」

 「汝自身を知れ」といふ言葉は、哲人ソクラテスの名と結び附いて世界的になつた標語である。
これほど古い起原と同時に普遍性を有する標語はないであらう。今日我が国において、西洋文化
を排斥し国粋主義を唱へる者が我々に向つて掲げる標語も、「汝自身を知れ」といふことである。
 ひとの知るやうに、それはデルフォイの神殿の壁に記されてゐた言葉である。その元の意味は
かうであつた、「汝等驕れる者よ、汝等は人間に過ぎぬことを考へよ、我れは神なり、我れに従へ」
と。即ちその言葉は自己を神化せずにはやまぬ古代ギリシア人の驕り(ヒュブリス)に対する警
告と訓戒であつたのである。そしてまさにこの原初の意味に従つて、我々は今日多くの国粋主義
者に向ひ反対に、「汝自身を知れ」と叫ぶべきではないか。
 この哲学的標語は後の詩人や思想家によつて、そのときどきの自覚や必要の相違に応じて種々
の意味に解釈され直した。この標語とつねに結び附けられるソクラテスは、それによつて一方、
我れ知れりと誇れる者の無知を自覚せしめ、他方それによつて、あらゆる人間に自己の価値を自
覚せしめようとした。このやうにして「汝自身を知れ」といふ言葉は、二つの相反する意味を一
つに統一し、弁証法的に理解さるべき言葉となつた。自己の無価値の自覚による謙虚と自己の価値の自覚による矜持とが同時に必要である。それがこの哲学的標語の真の意味であらう。
 ところが国民の自己認識を要求する現在の国民主義はどうであるか。自国のものは何でも文句
なしに善いもの、比較なしに最上のものと認めるのでなければ満足されず、愛国者とは見られな
いのである。「汝自身を知れ」といふことは、全く一般的な抽象的な意味においてしか考へられな
い。そこに現在の国民主義の一面性と抽象性が示されてゐる。
 「汝自身を知れ」といふことは、人間を徒らに反省的懐疑的ならしめるとして、ゲーテはこの
言葉を好まなかつた。人間は、自分が何であるかを、単なる自己省察によつて知り得るものでな
い。「ひとりの人間は多くの人間のうちにおいてのみ自己を知る」と、彼はアントニオをしてタッ
ソオに語らしめてゐる。「汝自身を知れ、そして世界と平和に生きよ」と、ゲーテは自分自身に忠
告した。詩人のこの言葉は、今日の国民主義に対して最も適切な標語となり得るであらう。


                                       (十月十五日)