仏教と翻訳問題

 さきには宗教団体法案が問題になり、最近はまた学校における宗教教育が問題になつてゐる。仏教が政治的にも思想的にも新たな関心の対象となつてきたことは事実である。仏教が将来の思想の唯一の基礎であるかの如く考へることは問題であらうが、東洋古典としての仏教に対する興味は一般に増してきたやうに思はれる。
 しかるに一般人が仏教に近づかうとするとき障碍になるのは、先づあの厖大な教典である。これは何とか整理のできぬものか。尤も、各宗派はそれぞれ要典が決つてゐるやうであるが、宗派的立場からでなく仏教を知らうとする者にとつて必要な教典が仏教家の手で選定されることが望ましい。これは学校における宗教教育の見地から云つても、この際問題になることである。
 我々の有する仏典は殆ど凡て漢訳であるが普通の者には近づきにくい。そのうへ仏教特有の読み方があつて、書いて貰はないと、発音だけでは我々には分らないことがある。これも思ひ切つて改めて、他の場合一般に行はれてゐる読み方に従ふことにしてはどうか。いづれは翻訳なのだから、普通の読み方でいけない場合には、むしろ進んでサンスクリットなりパーリなりの原語を用ひるのがよからうと思ふ。難かしい読み方をしなければ有難味が分らない仏教でもあるまい。
 近年大部の仏典の国訳が刊行されたのは、注目すべき文化的事業である。しかしなほ一歩を進めることが必要である。これは漢籍の場合にも云ひ得ることであるが、単に返り点をなくして読みくだしたといふだけでは真の翻訳とは云はれない。ほんとの国訳であるならば、西洋人が漢文を翻訳するときのやうに、原文を解釈しその意味を取つて、誰にも分る現代語に直さなければならぬ。漢籍は凡て支那音のままで読み、国訳は純粋な現代語にするがよいと云つてゐる漢学者もあるが、正当な意見である。漢字の制限、一般に国字国語の問題が我が国の将来の文化にとつて重大な問題になつてゐるとき、ただ読みくだせば翻訳であるといふやうな考へがなくなることが必要である。国粋主義の盛んな今日、インドや支那の典籍についても、純粋な国訳が企てられてよかりさうに思ふ。それは若干のディレッタントにのみ委ねらるべき仕事でない。
 葬式や法要の場合、一般人には意味がまるで分らない経文が読まれることも、宗教的には却つて効果のあることかも知れない。しかし仏典のほんとの翻訳が出来ることは、一時の政治的意図と結び附いた宗教教育などよりも文化的にもつと重要なことである。    

(十月八日)