級長選挙の教訓

                                   
 小学校生徒の級長選挙が問題になつてゐるやうである。級長選挙の運動資金を得るために、小学生が板の間稼ぎをしたり、また落選したのを恨んで放火を企てたりしたといふやうな事実があつて、級長選挙の弊害が叫ばれ、その廃止が唱へられてゐるとのことである。
 級長選挙の弊害が、自治といふものを形式的に考へ、小学生にまで認めるのに由ることは、過日、本紙の論説欄において指摘されてゐた通りであらう。そのやうな選挙の弊害は小学校だけでなく、大人の社会においても見られるところで、寧ろ子供は大人の為すことを単純に、率直に真似たに過ぎぬとも云へる。
 日本人の形式主義について屡々語られるが、この形式主義はかなり特殊なものである。形式主義は抽象的な考へ方からくるのが普通である。然るに物を抽象的に考へることが日本人の特性であるかどうか、疑はしい。過去の歴史において「科学」を持たなかつた日本人は、純粋に抽象的に、理論的に考へてゆくことは寧ろ不得手なのである。理論を抽象的だと云つて非難し得る資格があるほど、我々は嘗て純粋な理論を発展させたことがあるであらうか。
 日本人は物を距離において見ることができない。だから物を客観的に見ることができず、科学が発達しなかつた。どのやうな理論を学んでも、すぐ実際に当嵌めて、自分自身のことに直して考へないと承知しない。理論を理論として見ることができないために、どのやうな抽象的な理論でも、そのまま実際に行はうとする形式主義が生じてくる。何でも実際的意味にとられる我が国では、純粋な学説の発表も危険となるのである。理論を理論として尊重することを知らないために、理論そのものの具体的な展開に努力しないで、抽象的な理論で満足するといふことも起るのである。
 どのやうに抽象的な哲学問題を論じても、それがすぐに個人的な道徳、修養論に結び附けられる。深遠な哲学の裏に極めて通俗的な道徳論が潜んでゐる。それが日本人の実際主義である。この実際主義はどのやうな理論をもすぐ実際に直して考へる。それが却つて抽象論や形式主義の生ずる原因となつてゐる。智育の過重などとはなかなか云へないので、物を客観的に見ることを教へるためにもつと純粋に智的な教育を行ふことが必要である。日本人の実際主義そのものが批判的に反省さるべきである。
 級長選挙は形式的自治主義の弊を現はすものと云はれるが、このやうな弊は日本文化一般に広く拡つてゐるのである。  

                       (十月一日)