学位問題



 さきほど文壇は賞金問題で賑はうた。その後を承けてといふわけでもあるまいが、いま一学位論文に瑞を発して学園騒動が超つてゐる。先達ては文藝懇話会の賞金の出所がだいぶん問題にされたが、今度は論文審査の教授会における白票問題が議論の出発点となつてゐる。
 賞金は或る「業績」に対して与へられるものであらうが、学位は一定の「人間」に対して与へられるものであらう。だから賞金は、学術上の業績に見られる如く、数人の共同研究の結果である場合には、それら故人に共同に与へられる。しかるに学位は分割されない、それは業績といふよりも人間に対して与へられる。もし数人の共同研究に成る論文が学位論文として提出されたとすれば、どうなるであらうか。私は学位に関する規定を詳しく知らないが、もしも学位が業績に対して与へられるものであるならば、その場合それら数人がその論文によつて同時に博士になり得る筈である。賞金は、同じ人間が自分の業績によつて数回受賞することも可能であらうが、学位は、一度授けられると、生涯保持されることになつてゐる。
 尤も、業績と人間とは全く別のものでなく、或る人が学者として資格があるかどうかは業績によつて判別するのほかないから、学位授与も論文によるのは当然であるが、対象は人間である故に、なにもいはゆる学位論文だけでなく、その人の過去の業績及将来に予期され得る業績が考慮に入れられなけれはならない。学位が人間に与へられるところから、診療とは無関係な研究で医学博士になつた人間も、診療の名手であるかの如き誤解を世間に与へるやうなことも生じてゐるわけである。
 学位が人間に与へられるものとすれば、その決定に際して白票は無責任なことと云はねばならぬ。問題の杉村助教授の論文が哲学に関係してゐるため、自分たちには分らないとして白票を投じたといふ当局者の弁明もあつたやうであるが、同じ学校にゐる者には杉村氏が学者として博士に値するかどうか、平素の仕事からも分つてゐなければならぬ筈である。それも分らないとすれば、同じ教授会は同氏を助教授に推薦する資格もなかつた筈である。或る専門学者の書いたものを他の専門の者が残りなく理解できないとしても、その人が学者としてどれほどのものであるかは、学者としての常識で判断できる筈である。
 福田博士、左右田博士の時代、日本の経済学界をリードした東京商科大学も、今や元の「専門学校」となり、「専門学者」ばかりとなつてしまつたのであらうか。


 (九月十七日)