人物払底


 床次竹二郎氏が急逝された。私は氏について特別に知ることなく、氏がどれほど大きな人物であつたか分らないが、どうやらその一派にとつて氏に代るべき人間がゐないらしい。人が死ぬる毎に人物払底と云はれる。後輩は先輩よりも、後任者は前任者よりも、人物が小さいといふのが常則であらうか。ともかく人間の型が段々小さくなるやうに感ぜられる。単に政界のみでなく、官界でも、学界でも、社会のあらゆる方面において、型の大きな人物が次第になくなつてゆくやうに感ぜられる。これは何に因るのであらうか。
 私の中学生の時分『成功』といふ雑誌が出て、広く読まれてゐたやうに記憶する。成功と名のつく書物もたくさん出版されたやうである。「成功」といふ語がいはばその時分の合言葉であつた。それは日露戦争後における日本資本主義の急激な発展時代であつて、飛躍的に成功することも実際に可能であつたのであらう。今日はもとより、もはやそのやうな「成功時代」でない。時代は変つたが、しかし人間のイデオロギーはつねにそれに応じて急速に変るわけではない。今日立身出世主義といふものが、儒教的功利主義もしくは実際主義と結び附いて、なほ甚だ多く存在してゐる。
 立身出世主義は通俗道徳の根幹をなしてゐる。通俗雑誌の主なる内容の一つがそれであることは云ふまでもなく、家庭において親が、学校において教師が、社会において先輩が説く道徳も、立身出世主義が意識的に或ひは無意識的にその基調となつてゐることが極めて多い。
 立身出世主義の説教は、それを聴く者の利己心または功利心に訴へるといふ強味をもつてゐる。ところがそれは、実は、それを説教する立場にある者にとつて最も好都合な道徳なのである。下級の、支配されてゐる階級の者、後れて来る者が、みな立身出世を夢みて励んでくれればこれほど御し易いことはないであらう。立身出世主義は権力を有する者に対してつねに従順である。
 かの「成功時代」においては、それでもなほ冒険的な、野心的なところがあつた。しかるに現実において立身出世の可能性が益々少くなるに従ひ、立身出世主義にはもはや浪漫的なところもなくなつて、愈々卑屈となり、阿訣的となり、事勿れ主義となる。人間の型が小さくなるといふことには、もとより種々の原因があらうが、立身出世のイデオロギーも注意すべきものである。
 人物払底は立身出世主義の通俗道徳の結果である。この通俗道徳の批判が我が国では種々の意味において必要である。
(九月十日)