随筆時代


 随筆は日本文学において特色あるものと見られてゐる。日本人は短歌や俳句を好むやうに随筆を好む。そして短歌や俳句が西洋の詩と比較して日常性の文学としして特色づけられるやうに、随筆文学の根柢をなすのは日常性の思想であらう。随筆と云はれるものには西洋のエッセイと違つたところがある。日常性の尊重は東洋思想の一特色をなし、その基礎には東洋的な自然の思想が横たはつてゐる。
 しかし時代は変つた。この時代において、我々の思想的課題は、東洋古来の「自然」と如何に対質するかといふことにある。西洋思想の理解が徹底的になればなるほど、我々自身の思想に対する要求が運命的になればなるほど、この課題は愈々切実なものとなるであらう。今後日本の思想は恐らくそのやうな「自然」との対質乃至格闘において発展するのほかないのではないかと思ふ。
 随筆と云はれるものも変りつつある。西洋のエッセイに類する文章が我が国でも次第に作られるやうになつてきた。いな、ほんとはそれにもなり切ることができないで、新しいタイブを意識的に或ひは無意識的に求めてゐるのが現状であると云へるであらう。
 近年我が国は随筆時代をもつた。それはマルクス主義の流行が種々の原因から衰へるに従つてやつてきた。社会科学書の後に随筆書の流行が続いた。多少とも名を知られた者は誰でも随筆らしいものを書き、もしくは書かされた。このやうな随筆流行が我が国の随筆文学の発達にどれほど貢献したか問題であるが、確実に云ひ得ることは、このやうな随筆流行が思想の弾圧と共に生じてきたといふことである。
 さうだとすれば、今日なほ、寧ろ今日益々随筆時代が来てゐるとしても、不思議はないであらう。言論の抑圧のために、ひとは甚だ度々随筆的に書くことを余儀なくされてゐる。単にかくの如き外的事情によつてのみでなく、最近インテリゲンチャの内的な思想的困惑の結果、思想そのものが随筆的となつてゐる。更にこの頃流行の日本主義は、思想と云ひ得るほど組織的なものを有せず、それ自体もともと随筆的である。かくて日本人に伝統的な随筆趣味に助けられて、随筆として書かれたのでない文章までもが著しく随筆的傾向を有するに至つてゐる。
 ここに謂ふ随筆的傾向が真の随筆文学の精神とかかはりのないものであることは云ふまでもない。この猥雑な随筆時代に克つて理論的意識に生かされた活溌明朗な思想的文章が興るときは、同時に新しいタイブの真の随筆が現はれるときでもあらう。

(九月三日)