哲学と文藝
先年文部省の思想問題調査会か何かで、フランス思想の研究を奨励せよといふ案が答申された
と報道されたことがある。いはゆる思想問題の対策の一つとして、フランスの「ソリダリテ」(連
帯性)の思想を鼓吹するがよろしいといふのであつた。その後これがどうなつたか知らない。た
だ確実に云ひ得ることは、今日ではこのやうな、なまやさしい説をなす委員は一人もないであら
うといふことである。
政府の方針などとは無関係に、近年我が国の文学に、特に若い世代の文学に最も顕著な影響を
与へたのは、外国文学のうちフランス文学である。不安の文学、新リアリズム、行動的ヒューマ
ニズム等、近年の注目すべき文学現象は、主としてフランス文学の影響のもとに現はれた。他の
外国の作家に対する関心でさへ、フランス文学を通じて喚び超された場合が少くない。このやう
な事実には一般に文化上の、社会上の、また特に文藝自体に関する、種々の理由があるであらう。
一つの実際的な理由として、大学の仏文科の卒業生は、英文科はもとより独文科に比してさへ少
数であるにも拘らず、英独文科の卒業生の大多数のやうに教師として就職する見込が少いために、
却つて文藝に専念するといふこともあるであらう。
我が国でフランス文学が盛んになつたのは、もとより単にかやうな外的な理由にのみよるので
なく、それが若い世代の心に内面的に通ずるものを多く有するからであるに相違ない。ところが
文藝の隣の哲学はと見ると、これはまた依然としてあまりにドイツ的だ。今日の日本の学問で哲学ほど一面的にドイツ的なのは他に類例がないのではなからうか。哲学の重要な顧客先が教員で
あつて、その影響が普遍化しない理由がこの辺にもあるやうに思はれるほどである。いかにもド
イツ哲学は学校教師的に出来てゐる。私自身主としてドイツ哲学的教養を有し、またドイツ哲学
の長所を十分に認めようと欲する者である。しかし同時に今は日本の哲学の偏頗なドイツ依存に
ついてまさに反省すべき時機であらうと考へる。
最近のドイツ哲学は何と云つても昔日の面影を有しない。「ドイツ哲学」はもはや終結した一体
系ではないかとさへ感じられる。現代哲学の研究者がもつとフランス哲学の如きに注目すること
が必要である。この非合理主義の時代に、伝統的に主知的な、合理主義的なところのあるフラン
ス哲学を知ることが望ましいのである。私は決して西洋模倣を勤めるわけでないが、そのことは
文藝の場合から推しても日本自身の哲学の発展のために有益であらうと信ずる。
「人間を彼の祖国に限ることは事実を否定することである。そこまでだけなら我々は動物であ
る。ヒューマニティ(人類性)によつて我々は人間である」。これはこの頃我が国でも有名になつ
たアランの、あの世界戦争当時の言葉である。だから、今日こそ哲学は益々ドイツ的にならねば
ならぬと云ふ人もあることであらう。
(八月十三日)