日本人の非合理性



 日本人は理窟が嫌ひだと云ふ。理窟を云ふのは野暮なことだ。日本は昔から「ことあげせぬ国」である。理詰めで、合理的であることは非日本的なことのやうにすら考へられてゐる。政治家にしても、人気のあるのは志士風の、豪傑肌の非合理的な人間であつて、合理的な、従つてほんとは政治的力量のある人間は一般に人気がない。近年最も人気のあつた人物と云へば、多くの者が国際聯盟脱退当時の松岡洋右氏を想ひ起すが、この人の政治的手腕は問題でなく、ただその非合理的なところが好かれたのであらう。
 日本人がほんとに非合理的な国民であるかどうかは疑問である。西洋の小説に出てくるやうな非合理的な人間のタイプが我々の間に見出されるであらうか。その非合理主義は、合理主義をどこまでも突詰めた末に生れたものとは云へないであらう。むしろ私は、日本人が理窟嫌ひで非合理的だといふ意味は日本人が実際的であるといふのと同じでないかと思ふ。従つてそれは却つてそれ自身の意味における徹底した合理主義でもある。ともかくこの実際的といふことは我が国民性の重要な一要素であつて、日本人の強さと共にその弱点を現はしてゐる。
 理論は非現実的だと云ふが、ほんとに非現実的になるまで純粋に理論を追求した日本人があるであらうか。合理追求の激しさがなければほんとの非合理主義も生れてこない。日本主義者は非合理的といふことを精神的といふのと同じやうに考へてゐるが、さうすれば日本人が特別に精神的であるかどうか、甚だ疑問になる。
 国民性の問題は別として、合理的な政治家はこれまで人気の点でとかく損をしてきた。しかしながら国民性と難も不変のものではない。日本人が非合理的な人物を好んだのは、この国の社会の特殊性のために封建的イデオロギーが残存してゐたからである。社会の変化するに応じて国民性も変化する。そして政治家にしても合理的といふことが次第に喜ばれるやうになつてくる。
 例へば、荒木前陸相はどこか非合理的なところがあつて人気を得たが、今の林陸相はもつと合理的な政治家のやうに感ぜられる。林陸相今回の人事行政は果然好評を博した。それが一般政治問題として客観的に何を意味するかについては相反する見解がある。ファッシズムの場合にしても、封建的非合理的要素を清算して資本主義に適合した形態へ変化しつつあるのである。ただファッシズムはその本質上合理性を発展させることができぬ。そして今後その合理性を破壊せざるを得なくなる場合、危険は以前の封建的非合理主義の場合に倍加するであらう。


(七月二十三日)