現代の語彙


 ソヴェート・ロシヤでは、子供の集団的生活が彼等の語彙を貧弱にするといふ事実が問題になつてゐるやうだ。今日のロシヤは集団的生活を最も重んずる国と考へられてゐるが、子供を託児所、幼稚園等に委ねておくことは子供の言葉を貧困にするといふ結果を生じてゐる。絶えず集団的に生活するために皆が同じやうな言葉を語り、各人がそれぞれ特殊な経験を表現する言葉を学ぶことが少くなる故であらう。
 この事実は我々にとつても種々教訓的である。それは直接には幼稚園教育の問題に関係をもつてゐる。幼稚園の利益は我が国でもなほ疑問とされてをり、出てから数年たつて悪影響が現はれると論ずる者がある。特にその子供は饒舌家になるといふことが注意される。しかし右の事実は広く家庭と学校の問題、学校における教育方法の問題を含んでゐる。それは更に一般的には社会と個人の問題について示唆的なものをもつてゐる。社会と個人の問題が公式的理論によつて考へられるほど決して単純なものでないことを暗示するのである。
 だが語彙の貧困化はもつと悪い条件のもとに大人の世界においても見られはしないか。社会的といふことは今日あらゆる方面で合言葉となつてゐる。これは疑ひもなく重要なことに相違ないが、他面において、丁度集団的生活に委ねられた子供の語彙が貧弱になるやうに、それが思想の貧困を結果してはゐないかを省みることが必要である。社会的といふことが、社会に個人が徒らに追随するといふ意味になつて、個性的な言葉を少くしてはゐないか。真に社会的であることと社会の風潮に追随することとは同じでなからう。封建的事大思想は我が国ではなかなか抜け切らない。個人主義は排斥さるべきものであるにしても、個性の尊重といふことがそれと一緒に蔑視されるのは間違つてゐる。
 そのうへ様々なタブーがある。日本は世界唯一の伏字国でもある。その他枚挙にいとまがない多くの理由によつて現代の語彙は貧困化しつつあるやうに見える。もとより世界における国民主義が人類思想の語彙を豊富にしたと考へることはできないので、事実は寧ろ反対だ。嘗ては世界第一の哲学国と云はれたドイツの新刊書の如何に多くが、一々繙くを要しないほど類似の内容のものであるか。
 思想的語彙は貧弱になり、若干の政治的スローガンが代用される。思想的語彙の貧困化によつて饒舌家が減じたわけでない。思想の貧困が却つて饒舌の根源であり、あらゆる饒舌を可能にするのである。

(七月十六日)