読 書 論


 読書は一種の技術である。あらゆる技術には一般的規則があり、これを知つておくことが必要である。読書の規則については多くの人がいろいろ書いてゐる。例へはエミール・ファーゲの『読書法』(たしか邦訳が出てゐる筈だ)など、有益なものの一つであらう。しかし凡ての技術は一般的理論の単なる応用といふが如きものでない。一般的理論はそこでは主体化されねばならず、主体化されるといふことは個別化されるといふことである。これが技術を身につけるといふことであり、身についてゐない技術は技術とすら云ふことができないであらう。
 かやうな主体化を要求するといふ点において、手工業的生産の技術は工場的生産の技術よりも遙かに大なるものがあるであらう。まして読書の如き精神的技術にあつては、一般的規則が各人の気質に従つて個別化されることが愈々必要である。めいめいの気質を離れて読書の規則はないと云つて好いほどである。かやうに自分の気質に適した読書法を見出すためには先づ多く読むのほかないのである。
 ところが読書法について書いてゐる多くの人は、読書の規則としてたいてい多読を戒めてゐる。濫りに読むことをしないで、一冊の本を繰返して読まねはならぬと教へてゐるのである。それには勿論真理がある。しかしそれは、ちやうど老人が自分の過去のあやまちを振返りながら、後に来る者が再び同じあやまちをしないやうにと青年に対して与へる教訓に似てゐる。この教訓には固より真理が含まれてゐるであらう。けれども老人の与へる教訓のみを忠実に守つてゐるやうな青年は、何等進歩的な、独創的なことができない青年である。昔から同じ教訓が絶えず繰返されて来たに拘らず、人類は絶えず同じ誤謬を繰返してゐるのである。
 例へば、恋愛の危険性については古来幾度となく説き諭されてゐる。しかし青年はつねにかやうに危険な恋愛に身を委せることをやめず、そのために身を滅ぼす者も絶えないではないか。あやまちを犯すことを恐れてゐる者は何も掴むことができない。人生は冒険である。恥づべきことは、誤謬を犯すといふことよりも、寧ろ自分の犯した誤謬から何物をも学び取ることができないといふことである。誤謬は人生にとつて飛躍的な発展の契機となり得るものである。それ故に神或ひは自然は、老人の経験に基く多くの教訓が存在するにも拘らず、青年が自分自身で再び新たに始めるやうに仕組んでゐるのである。だからと云つて、もちろん、先に行く者の教訓が後に来る者にとつて全く無意味であるのではない。そこに人生の不思議と面白さとがある。
 読書の場合における多読もしくは濫読といふことも、同様の関係にある。多読を戒めるといふことは固より大切である。しかし我々は多読の冒険を通じてのみ自己の気質に適した読書法を見出し得るのである。一筋の本を精読せよと云はれても、自分に特に必要な一筋が果して何であるかは、多く読んでみなくては分らないではないか。古典を読めと云はれても、その古典が東西古今に亙つて既に無数に存在し、しかも新しいものを知つてゐなくては古典の新しい意味を発見することも不可能であらう。いつまでも濫読することは好くないにしても、読書は先づ濫読から始めなければならぬ。そして真の読書人は殆ど皆、濫読から始めてゐるといふのが事実であらう。
 現代における多読の弊は、多く読むといふことにあるのでなく、寧ろ今日印刷物が限りなく増加した結果、多読者が雑誌のやうなものはかり読んで単行本を読まなかつたり、やさしい本ばかり読んで少し難しい本は読むのを避けたり等々することにあるのである。
 多読もまた甚だ必要であるにしても、もちろん読書案内とか読書指針とかが必要でないといふわけではない。第一、昔と今とでは出版される本の数が全く比較にならぬほど増加してゐる。従つて本紙の如き読書新聞の必要が生じてゐる。私はこの新聞に対して、出版書肆の立場でなくて飽くまでも読者の立場に立つて読書の指針を与へることを希望する。この新聞が無料で配られるといふのでなく、読書人にとつて是非なくてはならぬものとして人々が進んで買つて読むといふやうになつて初めて、この新聞の存在する意味があるのであり、またそれが事業としても成立つのであると思ふ。
 人間のあらゆる行為には雰囲気が必要であり従つて読書にも雰囲気が必要である。そこで私のこの新聞に対する第二の希望は、単に読書案内に留まらないで、読書人にとつて必要な文化的雰囲気を作り出すことに大いに努力して貰ひたいといふことである。この新聞は既に文化新聞であることを標榜してゐるのであるから、それを実質的に発揮して、真に文化人の伴侶となるやうに心掛けて貰ひたいものである。これは出版屋で出してゐる新聞だといふ感じがなくなることが出来れば、この新聞の成功である。