戦争と文化


 戦争は文化に対して先づ現象的に種々の影響を及ぼすものである。否むしろ、文化が「
現象的」になるといふことが戦争の文化に与へる最初の影響である。これは戦争とはいはれない支那事変においてすでに見られることである。
 文化が現象的になるといふのは如何なる意味であるか。現象的といふ言葉は本質的といふ言葉に対してゐる。文化が現象的になるといふのはその本質的なものが隠されること、或ひは失はれることである。
 毎日の新聞を見ても、今日ほど新聞が現象的になつたことはないであらう。そのセンセイショナリズムは頂点に立つてゐる。しかし我々の最も知りたいこと、事件の最も本質的なものについては殆ど伝へてくれないのである。新聞はその本来の機能から逸脱して現象的になつてゐる。
 文壇や論壇を見ても、従来論じられて来たところの、また新たに現はれたところの本質的な問題はもはや殆ど取扱はれなくなつてゐる。否、そこにはもはや「問題」といふべきものがなくなつてゐる、見られるのは殆どすべて現象のみである。なぜなら問題は、現象についてその本質が何であるかと問ふとき、或ひは現象について本質的な批判を行ふとき、初めて現れるのであるが、かやうな批判も本質論も戦争においては隠れてしまふのである。
 もちろん戦争がすべての問題を一時になくしてしまふわけではないであらう。今度の事変にしても、決して単に突薔的に起つた現象であるのでなく、問題はすでに以前からあつたのであり、ある意味においては以前からの問題の延長に過ぎぬ。戦争といふ現象の目新しさに心を奪はれてしまつて、それによつて従来の問題が何処かへ吹つ飛んでしまつたかのやうに考へてはならない。戦争は更に新しい問題を伴つてくるであらう。しかし我々に教へられるのはたいてい現象だけであつてその本質的なものでない。例へば今度、文学者が上海や北支へ出掛けてルポルタージュを書いてゐる。それらはなるほど読物としては面白くなくもないが、そこから我々は何か本質的なものを掴むことができるであらうか。文学者に政治眼や経済眼などを期待するといふのではない、文学者は文学者の眼をもつて普通の人間には見えない或る本質的なものを見て来て貰ひたいのである。しかるに彼等の報告もやはり現象的に止まつてゐる。
 かやうな文化の現象化はもとより畢に文化従事者の眠が戦争のために眩んでしまふ結果ではない。その原因はむしろ他にあるのである。それは戦争に伴ふ統制の強化である。如何なる統制にも拘らず事件は取上げねばならない、誰もそれについて知りたがつてゐる。かやうな場合その取扱ひ方はおのづから現象的とならざるを得ないのである。そこには戦争によつて不安にされた心がセンセイショナルなものを求めるといふ傾向も働いてゐなくはなからう、そしてセンセイショナルなものは人々の心をして更にセンセイショナルなものを欲するやうにする。しかし文化の現象化の一層本質的な原因は、戦争によつて強化される統制がその手段として宣伝を用ゐるといふところにある。そこで戦争と文化の問題は次に統制の方面から見られなければならぬ。
 戦争が文化に及ぼす影響のうち最も著しいものは統制の結果として現れる。この統制は文化の生産にとつて根本的に要求される自由を甚だしく抑圧する。戦争の経済的影響による文化的諸手段の欠乏と共に研究の自由、発表の自由等は極めて制限される。そこで、従来文化的に活動してきた優秀な頭脳の多くが次第に姿を消してゆく。
 もとより戦争が文化を必要としないのではない。近代戦は綜合的であることを特徴とし、それは思想戦でもあり、文化戦でもある。従つて戦争は一方において一定の傾向の文化を圧迫すると共に、他方において他の一定の傾向の文化を宣伝する。宣伝は統制の手段であり、何よりも輿論の統制を目的とするものである。
 かくして戦争歌謡、戦争文学、戦争劇などが奨励されるやうになる。その中に自由な直接の感動から発した優秀な作品がないと云はれないにしても、多くは際物に止り、永続的価値を有しないのがつねである。宣伝文学の類は文化を現象的にし、文化意識を皮相化する、かやうな宣伝文学は政治文学である。戦争は政治の訴へる一手段にほかならぬからである。従つてこの時代においては、自分では単純に戦争を取扱つてゐるつもりでゐても、現実には政治的効果を有する場合があることに注意しなければならぬ。嘗てプロレタリア主義の盛んな当時、それは文学を政治化するものだといふ非難があつた。しかるに今日、かやうな非難をした者或ひはその非難に内々賛成してゐた者が、意識的に或ひは無意識的に文学を政治化し始めてゐるといふことが見られないであらうか。
 すべての統制が悪いとはいへず、すべての宣伝が悪いともいへない。宣伝は大衆のうちに輿論として生れつつあつたものを統一し、これに力を与へるといふこともあり得る。しかし宣伝は時として真の輿論を抑圧して代りに擬装的輿論を作り出すものである。かやうな擬装的輿論を真の輿論と間違へないことが大切である。このことを注意するのは、我が国においては流行といふものが特別に大きな力を有する傾向があり、何事にも流行を追はうとする人々の擬装的輿論に追随することが生じ易いからである。
 すべての時期の文化がさうでなければならぬと云ふのではないが、今日のやうな時代には、文化は批判的要素を必然的に含まぎるを得ず、批判的要素を含むものにして真の文化と云ふことができる。しかるに統制を目的とする宣伝は批判的精神を抑止することに努める。そこで宣伝の盛んな時代においては文化は益々批判的になることが必要である、ところがこの時代において文化の統制は愈々加はつてくる。かくして文化は破壊される危険がある。
 戦争は文化にとつて有利なものとは云へぬ。戦争が文化を刺戟し発達させることがあるにしても、甚だ局限されてゐる。それも已むを得ぬことであるとすれば、戦争と文化の問題にとつて重要なのは戦後の文化の問題である。
 戦争の本質的な影響が文化上において明瞭に現れて来るのは、だいたい戦後のことである。従つて文化的に重要なのは「戦後文化」の問題である。このごろ我が国では欧洲大戦当時の文化の有様がいろいろ紹介されてゐるが、あの戦争中の現象は記録的には重要であるにしても、文化的意義から云へば、いはゆる「戦後文学」「戦後哲学」等々が遥かに重要性をもつてゐる。
 戦争の初めには戦前からの文化が或る程度継続される。むろん現象的には戦争の影響が大きく現れて来るけれども本質的なものにおける変化はそれほど顕はでない。戦争の本質的な影響が見られるやうになるのは戦後文化といふべきものにおいてである。戦争文学などにしても、すぐれたものが出来るとすれば、戦後のことである。それは戦争の全体の経過を見通しそれについて反省し得るやうになつた時において、とりわけ戦争に直接参加して深い体験をした人々の手によつて作られるであらう。戦争文学の如きですら戦後文化の問題に属すると云へる。
 戦争中に表面に現れる文化は多かれ少かれ国民的性格を有するものである。何事も自国の立場から論ぜられる。欧洲大戦の時には各国の著名な哲学者が自国の立場を弁護するために筆を執つたものである。この頃の支那論を見ても殆どすべてが日本の立場から書かれてゐる。これは特徴的な現象であり、読者の注意を要することである。戦争中の文化はかやうに国民的 ― 必ずしも国民主義的といふことでなく、国民主義以外の立場の人々ですら自国の立場からのみ物を見るといふことが特徴的だ ― であるが、戦後になると、それが双方共通の問題や様相を現して来る。これは欧洲大戦後の文化を見れば分ることである。戦後文化はかくの如く世界的性格を顕著にして来る傾向をもつてゐる。
 かくして戦後における社会的政治的発展が如何なるものであるかが、戦争と文化の問題にとつても重要である。戦争は政治の訴へる一つの手段であるが、やがて逆に政治に影響し政治を変化させる。欧洲大戦後にロシヤやドイツに起つた革命はその著しい例である。今度の支那事変の如きも、そのために日本の政治には変化がないにしても、少くとも支那の政治に大やな変化の生ずることは想像され得るところであり、そしてそれがやがて日本の政治にも重要な作用を及ぼすことになるであらう。戦争について文化的には戦後文化が問題であるとすれは、戦争の影響から生ずる社会的政治的発展に絶えず注目してゆくことが大切である。
 戦争は文化人を沈黙せしめるであらう。戦争中に戦争文化として現れるものの多くは現象的であつて本質的なものではない。しかし沈黙してゐる者も考へることを止めないであらうし、また止めてはならない。戦争は文化を不要不急のものにするにしても、文化は永久に不要不急のものであるのではない。注目すべきは戦後文化であり、文化人はこれに対して用意しなければならぬ。今は我々は戦争に対して眼を閉ぢこれまで通りの仕事をしてゆき得るかも知れない。しかし戦争の帰結は、それに対しては誰も眼を閉ぢてゐることが不可能になるのである。