ユートピア論

 ユートピアについて語ることは今日の流行ではないであらう。今日の流行はむしろ神話である。それでは神話とユートピアとは如何に区別されるであらうか。この場合、神話は過去の像であつて、ユートピアは未来の像であるといふやうな単純な考へ方では全く不十分である。なぜなら今日少くとも哲学的な意味で神話といはれてゐるのは単に過去のもののみではない、現代の神話があり、また未来の神話がある。そしてこれはユートピアといふものと同一の、少くとも類似の性質のものではないであらうか。しかもなほ神話とユートピアとが区別されねばならぬとすれは、その根本的な点は何処にあるであらうか。
 今日の流行はユートピアであるよりもむしろ新秩序と称せられるものである。東でも西でも新秩序について語られてゐる。この新秩序とは範疇的に如何なるものであらうか。それは神話に属するのか、それともユートピアに属するのか。そのいづれでもないと答へられるとすれは、新秩序といふものは一つの理想であるのか。もしそれが理想に属するとすれは、理想といふ概念の根柢には如何なる世界観が含まれるかを吟味し、その世界観が果して今日新秩序を語る者の有する世界観と一致するか否かを検討してみることが必要である。今日の支配的な世界観は歴史的世界観であるといふことができる。実際、新秩序をいふ場合、その世界史的意義をいふことが普通になつてゐるのである。歴史的なものは時間的であり、時間が歴史の根本概念である。そしてまた例へば神話の概念の根抵には時間の概念があり、従つてそれは一定の歴史的世界観に結び附いて考へられてゐる。しかるに理想といふ場合、少くとも厳密な哲学的概念としては、何等か超時間的なもの、永遠に妥当するものといふやうに考へられるのである。理想といふ場合、存在と当為、事実と規範といふやうな二元性が考へられる。或ひはまた理想といふ場合、何か合理的なもの、主知的なものが考へられる。理想主義は観念論、特に合理主義的観念論と結び附いてゐる。しかるに今日の歴史的世界観、神話といふ如きものを力説する考へ方は、右のやうな考へ方とは結び附かず、従つて新秩序といふものを理想と考へることは少くとも哲学的に厳密な意味においては困難があるであらう。それならは新秩序の思想は神話であるのか。もしそれが神話の如きものであるとすれは、何故にそれはユートピアの如きものでないのであるか。いつたい神話とユートピアとの区別は何処に存するのであらうか。かやうにして今日の神話論、新秩序論の意味を哲学的に明瞭にするためにも、ユートピアの本質について考察することが必要なのである。
 歴史を回顧すると、プラトンからウェルズに至るまで、我々は多くのユートピアをもつてゐる。
その歴史において我々はユートピアが如何なる一定の社会的条件から生れてくるものであるかを
明かにすることができるであらう。これは一つの重要な課題である。しかしまた他方ユートピア
がユートピアとして形成されるについては、その一定の形成原理、ハンス・フライエルのいふや
うにユートピアの論理とも称すべきものの存在が考へられるであらう。このものを明かにするこ
とによつて、あらゆるユートピアがその内容の差異にも拘らず共通に有する性質が示やれ、そしてそれが神話とか理想とかいふ他の観念形態とは本質的に区別される理由も理解することができ
るのである。このユートピアの論理が今我々の問題である。
 先づすべてのユートピア作者に対して提出され得る極めて単純な、しかし重要な問は、彼等が
我々の住む世界とは全く違つたもののやうにいひ、しかもその状態を詳細に描き出してゐる世界
は、いつたい何処に存在し、如何にしてそこに達し、如何にしてその報告を得ることができたか
といふことである。以前は多く難船が利用された、即ち難船の結果或る一人もしくは少数の人間
が不思議な国の岸に漂着したものとして報告された。或ひは遠くへ族行した友達がユートピア物

220

語の責任を引受けた。しかるに人顆の地理的知識が撲大するに従つて、その方法は不可能になつ
た。地球上には種々珍しいものがあるにしても、絶封に羨望に催するものは何処にもない。かや
うにして客間上の距離を使用することができなくなると、残るのは時間上の距離である。ユーt■
ピアは速い過去に求められるか、速い未来に求められることになる。二つの場合共に実際にユー
トピアの歴史に現はれてゐる。このやうに客間1或ひは時間上の遠方に彼等のユートピアを描1
といふことが従来殆ビすべてのユーとア作者によつて採用されて来た方法である。そしてまさ
 」】′lヽl′Jlち111
にそれ故に彼等はユートピアンと考へられるのである。しかしながら彼等は決して現実に対して
無関心であつたのではない。ただ現実から逃避しょうとする者は決してユーとア作者になるこ
                           .111il−・・−、与
とができないであらう。むしろ新しい圃を建設しょうとする意志、マナピアの像に従つて現実
 ヽ与.I
乳ピアの根抵に働いてをり、これがその本来の動力とな
つてゐる。それにも拘らずユートピアが速い囲の物語として述べられてゐるといふのは如何なる
理由に依るで為らうか。
 そこにユーとアの他の一つの共通の特徴が結び附いてゐる。すべてのユーとアは大洋の中
の島におかれてゐるか、それとも自然或ひは法律によつて周囲の世界から隔絶されてゐる。ヱ
Z瀾瀾周瀾用頂潤一潤題州、、ち、.〉1¥、.
       ス・モーアの主人公はアブラタサ牛島を裁つて島とし、そこに彼の囲を建設した。フィヒテの理
想囲は「閉鎖的商業国家」として構成された。ユートピアはフライエルの名附けたやうに「政治
▲】■き
的島」である。それは周囲の世界との関係から切り離されて、外的影響によつて左右されないや
ぅな、それ自身の場所におかれてゐる。それが客間上或ひは時間上の遠方におかれたといふこと
も、讃者の想像力を活潜にし、それを全く新しい囲として理解させるためであると共に、それを
周囲の世界との関係から庵繰されたそれ自身の島として描き出すためであると考へられるであら
ぅ。あらゆるユートピアは歴史的文化の大陸から切り離されてゐる。たまたま族行者が嵐のため
に難破してその岸に漂着し、客として迎へられ、そのすべての施設をあらゆる驚歎をもつて見る
ことがあつても、それはちやうど工場の硯察者がその作業に何等影響を与へないのと同じやうに、
この自足的な世界の活動には何等影響を及ぼさないのである。ユートピアは自足的な完結的な慣
系である。
 tかるにユートピアが完結的な憤系であるといふのは、畢に客間的隔絶の意味においてのみで
なく、その内的構造においてもまたさうである。ユートピアのこの特徴は、それが全く合理的に
構成され、機械的に諸要素から合成され、これら諸要素の間の原因結果の完結的憶系として設計
ユートピア論
四二九
一還

甘£
囚三〇
される場合、最も明瞭に示されるであらう。言ひ換へると、合理主義がユートピアの根抵にあり、
その内的な動力になつてゐる。ユートピアを軍なる想像の産物であるといふのは嘗らないであら
                                                                                                                                          ヽ亨
う。もとより構想力なしにはユートピアの生れ得ないことは確かである。
しかしながらユートビ
アにおいて構想カの衣のうちに包まれてゐるのは合理主義的核資である。それが隔絶した島と考
へられるのも、それを純粋に合理的に構成するためである。
ミ11 ■ 一 .1.■11  」
ユートピアと結び附いてゐる冊プチ
イミズせナJの合理主義を離れて理警れないであらう。ユートピアは構想力の産物である以上
に知性の産物である。ユーとア作者は心理学や杜曾科学の軍全な憶系を所有すると信ぜられて
ゐる。彼はあらゆる政治的施設の心理的結果を、あらゆる心理作用の政治的結果を計算すること
ll
ができる。彼は如何なる衝動が人間において断ち難く、満足させられねばならぬかを知つてゐる。
彼は情念のうち如何なるものが抑へられ、如何なるものが堰止められ、如何なるものが匡正され
得るかを知つてゐる。彼は刑罰と報酬との力を知つてゐる。また彼は教育の影響力や法律の有数
範囲を知つてゐる。彼は理性がいつ如何ほビ温く、美的印象がいつ却何ほビ持績的に、権威的命
令がいつ如何ほビ深く、人間の行為を決定するかを知つてゐる。更に彼は宗教をも彼の計算に入
れることができる。文化のあらゆる要素の間のあらゆる関係を認識し得る科学に基いて、彼は彼
の国家を建設するのである。ところでかやうな「杜曾的機械技術の工警叩」に対して、フィヒテ
はそれを啓蒙主義的と刻印して排斥した。それは寧琴王義的合理主義であり、機械論的合理主義
である。フィヒテ自身は彼の規範国家を理性に基いて先験的に構成し得ると考へた。しかるにこ
のやうな先験主義はまたそれ自身の意味における合理主義であるといふことができるであらう。
その規範国家は機械論的合理的ではないが、目的論的合理的であり、かやうなものとしてやはり
完結的な憶系と考へられてゐるのである。
ユートピアは、完結的な憶系であることと閲聯して、一日由来上ると欒化しないものと考へら
れてゐる。ユートビアは教展を知らず、蓉展を許さない。
そこでは歴史は辞止する。従つてユー
トビア作者は彼のうまく作られた秩序を、妨害に対して保護し、欒化に対して防衛するために、
種々の封策を考へてゐる。饅系のあらゆる故障は直ちに調節され、あらゆる攣化の脅威は直ちに
阻止されるやうに工夫しなけれ咤ならぬ。かくて仝慣の通常な組合はせによつて既に作られて/ゐ
る均衡は、いはは自働野によつてなほ特別に保護されるのである。もちろん子占ア作者はト
外からの支へや後からの助けが永い間の役に立たぬこと、故障が生じた個々の場合にそれを抑へ
るよりももともと故障を不可能にしておくのが一層安全であることを知つてゐる。犯罪人の出た
ユートビア論
四三一

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四三〇
される場合、最も明瞭に示されるであらう。言ひ換へると、合理主義がユートピアの根抵にあり、
その内的な動力になつてゐる。子トビアを単なる想像の産物であるといふのは嘗らないであら
                                                                                                                                          ヽ亨
う。もとより構想カなしにはユートピアの生れ得ないことは確かである。
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アにおいて構想カの衣のうちに包まれてゐるのは合理主義的核資である。それが隔絶した島と考
へられるのも、それを純粋に合理的に構成するためである。
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ができる。彼は如何なる衝動が人間において断ち難く、満足させられねばならぬかを知つてゐる。
彼は情念のうち如何なるものが抑へられ、如何なるものが堰止められ、如何なるものが匡正され
得るかを知つてゐる。彼は刑罰と報酬とのカを知つてゐる。また彼は教育の影響力や法律の有数
範囲を知つてゐる。彼は理性がいつ如何ほビ温く、美的印象がいつ潮何ほビ持績的に、権威的命
令がいつ如何ほビ深く、人間の行為を決定するかを知つてゐる。更に彼は宗教をも彼の計算に入
れることができる。文化のあらゆる要素の間のあらゆる関係を認識し得る科挙に基いて、彼は彼
の国家を建設するのである。ところでかやうな「杜曾的機械技術の工襲ロm」に対して、フィヒテ
はそれを啓蒙主義的と刻印して排斥した。それは啓蒙主義的合理主義であり、機械論的合理主義
である。フィヒテ自身は彼の規範国家を理性に基いて先験的に構成し得ると考へた¢しかるにこ
のやうな先験主義はまたそれ自身の意味における合理主義であるといふことができるであらう。
その規範国家は機械論的合理的ではないが、目的論的合理的であり、かやうなものとしてやはり
完結的な憶系と考へられてゐるのである。
ユートピアは、完結的な饅系であることと閲聯して、
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れてゐる。ユートピアは拳展を知らず、蓉展を許さない。
そこでは歴史は静止する。従つてユI
トビア作者は彼のうまく作られた秩序を、妨害に対して保護し、欒化に対して防衛するために、
種々の封策を考へてゐる。饅系のあらゆる故障は直ちに調節され、あらゆる欒化の脅威は直ちに
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る均衡は、いはば自働押によつてなほ特別に保訊誓あるのである。もちろんユートピア作者は、
外からの支へや後からの助けが永い間の役に立たぬこと、故障が生じた個々の場合にそれを抑へ
るよりももともと故障を不可能にしておくのが一層安全であることを知つてゐる。犯罪人の出た
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四三一

                                            四三ニ
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場合に腎明な法律で縛るよりもおよそ犯罪の生じないやうにしておくことが彼の誇りである。ユ
ーtピア作者は彼の囲の人間を絶封に把握してゐると考へる。彼の設計した合理的な世界を少し
も攣化しないやうにすべての人間が合理的に行動するものと信ぜられてゐるのである。彼の合理
主義はオプティミズムと結び附いてゐる。しかしそのためにユーーピアには欒化がなく麓がな
い。如何なる歴史の道もそこから、そこを越えて、導いて行かない、それがむしろユートピアの
委求である。ユートピアはその無産史性を守らなければならないのである。
かやうにユーとアから出てゆく歴史の造は存しないとすれば、そこへ入つてゆく歴史の造が
問題である。これは如何なるものであらうか。ユーtピアは政治的島としてそれ自身の客間に存
 与・l1.−
在する完結的な慧であるから、その秩序の部分的資現といふこ良考へられす、ただその毒
的賛現が考へられ得るのみである。ユーとアは存在するか、それとも存在しないかである。従
つてあらゆるユートピアに対して、如何なる道によつてそれが賛現され得るかが、それだけ緊要
な問題として授出されねばならぬ。歴史的世界の状態や出来事をユー左アの規範の下に眺め、
しかもこの規範の畢乱引附則引その賛現の可能性を信ずる者にとつて
                        ミ1.−一l
は、歴史は二つの部分に、即ち従来の混沌とした、攣化する、意味のない現賛と、ユーーピアの
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  ニ
明るい、奨化しない、意味に充ちた世界とに分れる。一方から他方への徐々の推移は考へられな
い。漸次的な香展、漸進的な改革はユートピアに導かない。過去と未来との間には紀封的な断絶
が存し得るのみであり、経験的現賢からユートピア的現実への持換は一同的な仝饅的なものであ
り得るのみである。もしユートピアが存在すべきであるならは、それは絶封的な教端をもつて始
まらなければならない。ユートピアは存在するか、それとも存在しないか、「これか・あれか」
といふことは、ユートピアに一種の濠言の性格を与へるであらう。務言者も世界を絶封的な断耗
によつて二つの部分に分ち、現代に対してこの断崖の前における決意を促すのである。ユートピ
アの或るもののうちにはかやうな務言者的精神が働いてゐる。しかしながら多くのものは問題を
ぅしろにずらしてゐる。即ちユートピアは速くの鳥にか他の星にか既に現実に存在するもののや
うに考へられてゐる。さうすれば、そこへの道はさしあたり幸運な漂着であるといふことになる。
それにしてもユートピアは如何にして建設されるかといふ問題は依然として残るであらう。そし
てこの場合二′っの解決方法が提供されてゐる。即ちユートピアの思想がその内面的眞理性の力に
ょって人間を捉へ、彼等を啓香し或ひは感動させ、直ちにその通りに生活するや、つに決意させる
と考へられるか、それとも或る強い政治力が、例へは一人の腎明で強力な王がユートピアの思想
ユートピア論
四三三

                       四三四
に腕を貸してこれを昇現すると考へられるかである。この二つの解決方法はそれぞれの場合深く
も浅ぐも理解されてユートピアの歴史に現はれてゐる。         首.
ユートピアの構造が右の如きものであるとすれば、先づ注意されるのはその根抵にある合理主
義である。この点でユートピアは神話といふょりも理想といふものに類似するであらう。ユート
 ー
ピアは合理的なものに封する憧憬として現はれ、その性格においてオプティミスティツタである。
そこにユートピアのメリットがあると考へ得るであらう。ユートピア作者はその形象の合理的構
成のために特殊な方法を用ゐてきた。痢は過去の歴史の結果として存在する複雑な条件から抽象
して、畢純な条件のもとに、即ち歴史的文化の大陸から切り離された島において、彼の理想囲を
構想する。これは科学者が資験室において自然の現象をその複雑な条件から切り離してできるだ
け畢純な条件のもとに構成しっっ観察するのに似てゐるであら、¢ユートピアは一種の思想資験
                                                                                                                                     ヽ■‡I
‡▼
である。
かやうなものとしてユートピア的思惟は歴史的思惟にとつてつねに必要である。それは
歴史的事象に封する合理的な概念構成のために要求される
一つの方法である。
マツタス・ウエー
ベルは杜曾科挙における理想型の構成は内容的にユートピアの性格を拾ふものであるといつてゐ
る。例へは都市経済とか手工業とかいふやうな概念は理想型としで構成されるものであつて、そ
の概念的純粋性においては現賛の何処にも経験的に存在するものではない。それはひとつのユI
トビアである。科学にとつてもユートピア的思惟は必要である。しかしながら問題は、それが如
何ほビ深く歴史的現実の中に入つてゆくかといふことである。科学は軍なるユートピアでなく、
経験的基礎に立たねはならぬ。ユートピアといはれる理想型にしても、経験的現賛に沈潜してそ
の中から思想的高昇によつて作られてくるのでなければならぬ。科学のみでなく実蹟にとつても
ユートピア的思想責験が必要であり、これによつて実践は合理性を得ることができる。あらゆる
計蓋にはユートピア的思惟が働いてゐる。ただこのユートピア的思惟は与へられた現実の中に深
く入つてその中から出てくるのでなけれはならぬ。この点においてユートピア作者は却つて現実
を回避した。もちろん彼等はユートピアを単なる思想資験に止めないで現実の責験に移さうと企
てた。その場合彼等が彼等の考へ方に相応して選んだのは歴史的侍統の存在しない場所であつた。
とりわけ新大陸が、歴史のないアメリカが多くのユートピア的賛験の場所として選ばれた。そこ
に彼等は彼等のユートピアの欲するやうな理想的条件が存在すると考へた。歴史的俸統はすべて
非合理的なものと思はれた。要するに彼等は歴史を避けることによつて歴史を作ることを企てた
のである。その資験が失敗に帰したのも当然であらう。如何なる新しい歴史も歴史の中において
ユートビア論
四三五

四三六
作られるのほかなく、ただその中においてのみ作られ得るのである。ユートピアは一つの歴史像
と考へられるのであるが、却つて無歴史的であることを特赦としてゐる。ユートピア作者も現実
の歴史が複雑な条件から成ることを知つてゐる。そこで彼等は人為的に理想的な条件を作り出す、
これはもちろん、プラトンが正確にいつてゐるやうに、ただ思想のうちにおいてのみ可能である。
これによつて彼等は理想の国家を現実の歴史との聯開から切り離して案出する。「今そして此処
で」は「何処か」、「嘗て或る時」或ひは「いつか或る時」となる。即ちユートピアはその本質に
おいて時間的客間的に無限定である。あらゆる歴史的なものは時間的客間的に限定されたもので
  −
ある。しかるにユートピアは特定の歴史的客間、特定の歴史的時間において、言ひ換へると、
「今そして此処で」資現さるべきものと考へられてゐない。それは客間上或ひは時間上の遠方に
おかれるのがつねである。もちろん如何なるユートピア作者もその材料を現実の歴史から取つて
くるのほかないであらう。そこで彼はその理想囲が地上において可能になるべき条件を資験的純
  −
枠性において考へるのである。この点、眈に述べた如く自然科学の資験家が自然の法則を認識し
て自然を支配するために、自然界の出来事においては決して現はれないやうな理想的条件を人為
的に作り出すのに似てをり、かやうな認識方法は歴史にとつても必変であるが、しかし自然科挙
的経験と歴史的経験との間には差異が存することを考へなければならぬ。自然が一般的なもの、
「今そして此処で」といふことを離れて客観的に考へられ得るものであるに反して、歴史はどこ
までも個性的なものである。そこにユートピア作者の混同がある。その混同によつて彼は歴史的
現実の中に入つてそれと結び附く代りにそれから離れてゆくのである。ユートピアは何度でもな
いところにあるものである。それは歴史的客間と歴史的時間とから辞離してゐる。
ユートピアはつねに知性の加工物である。しかし更にその起原に潮つて考へると、ユートピア
は構想力から出てくるといはれるであらう。構想カなしにはユートピアは存在し得ない。そしk
仮にユートピアは無用であるとしても、構想カそのものは歴史にとつて重要な意味をもつてゐる。
あらゆる歴史的形成は構想力なしには考へられないであらう。しかしこの場合構想カはユートビ
ア的構想カであるよりもゲーテのいふ「現斉的なものの想像」P血中ロtaSiのdes河g訂ロであると
いはれるであらう。それは単なる思想上の表象ではなく、物において或ひは人間の行為によつて
晋現されるものである。萎術家の想像も物から離れたものではない。物において賛現さるべき想
像は物から離れることができぬ。オイレンブルタは、経済的人間の想像力について論じて、近代
においては現質的なものの想像力が著しく薔達したし、また番達しなけれはならぬ理由があると
ユートビア論
四三七

                                            四三八
述べてゐる。彼のいふところでは、それは先づ彼岸の表象の退却によつて可能にされた。従来教
曾は千年期説−フライエルはこれをユートピアに敷へてゐる−とその形象的叙述にょつて民
衆の想像生活に極めて大きな影響を与へてゐた。それは人々の想像力の本質的な部分を吸収して
しまつてゐた。彼等の想像力は来世の生活に向けられて現賓の生活に向はなかつた。しかるにこ
の彼岸の想像の退却と共に我々の想像力は此岸に向つて解放されるやうになつた。第二に、自然
と地球に関する知識の擦大が構想カに新しい道を示した。第三に、経済が町や村や地方の狭い範
囲から国民経済となり、世界経済となつたことが、構想力の新しい活動を必要とした。地理的知
識の撼大と同じやうに経済範囲の擦大も、感覚的に経験されるものを想像力によつて越えること
を我々に要求するのである。第四に、現代の生活においては未来が次第に多く重要性を占めるや
うになつた。未来は直接に与へられた現実ではなく、未だ存在しない可能性の先取であり、構想
カによつてのみ捉へられ得るものである。第五に新しい技術の存在がある。それは自然を越えて
ゆく自然法則性の新しい組合はせであり、構想カなしには作られない、とオイレンブルタはいつ
/   \
てゐる。構想カは感覚的に経験されるものを越えて表象する力である。ユートピアが「今そして
此廃で」を越えたものとして構成されるためには構想カに依らなければならぬ。ところで今日ユ
Tトビアの存在に対して飴地が少くなつたやうに思はれるのは、一面からいふと、右のやうな現
賓的なものの想像が拳達したためであるとも考へることができるであらう。しかしながら他方ユ
ートピアは何等か深く人間性に根差してをり、現賓的なものの想像のうちにも、特に政治的事象
に関する場合、何等かユートピア的なものが含まれると考へられないであらうか。.
既にいつたやうに子トビア作者止佃界を二つの部分に分ち、その妄から他方への漸次的な
推移は考へられない。これは何を意味するであらうか。この二元性の根源に隠されてゐるのは超
越の問題である。この超越が穎はになるに徒つてユートピアは預言の性格を一層多く据ふに至る
であらう。それは宗教的ユートピアにおいて、或ひはまた超越的観念論的ユートピアにおいて認
められることである。ユートピアは人間存在の超越性に基いてゐる。人間に超越的なところがあ
る限り、ユートピアは存在することをやめないであらう。しかしながらユートピアはそのものと
しては務言と同じではない。預言が超越的なものであるのに対してユートピアはむしろ内在的な
ものと考へられるであらう。一層正確にいふと、ユートピアは内在的でもなければ超越的でもな
い。それはいはは内在と超越との均衡する線の上にある。固有な意味におけるユートピアは超越
的な神の囲の如きものでなく、一内在的な歴史的像である。しかしそれは他方無歴史的に考へられ
ユートピア論
四三九

                      四四〇
てゐる。それは歴史の客間及び時間のうちに定位することのできないものである。けれどもユー
書_
トビアは超時間的な、先験的な規範として考へられてゐるのでなく、むしろ一つの現軍として表
象されてゐるのである。扁正確にいふと、ユーーピアは規範でもなけれは現賛でもない。この
やうな甚だ不思議な位置をユートピアは占めてゐる。それは預言着からも、先験主義者からも、
合理主義者からも、非合理主義者からも喜ばれないであらう。しかも彼等のいづれもが知らず識
らずユートピアを描いてゐるのである。そしてそのやうな不思議な位置を構想力が占めてゐる。
構想力が特に人間的なものであるとすれは、ユートピアも特に人間的なものである。ヒュユニ
ズムにはつねにユートピアがあり、ヒューマニズムそのものが一つのユートピアであるといひ得
るであらう。人間は自己の描くユートピアに従つて生きてゐる。歴史は神話から、或ひはまた悲
        育−
劇からのみ考へらるべきものではない。歴史はまたユーとアから考へられねはならぬであらう。
ユートピアは歴史によつて絶えず毀されてゆく。しかしユートピアは存在することをやめない。
子・トビアはつねに歴史の重荷を振り捨てて新しく始めょうとする。歴史的存在である人間はこ
の無歴史的なものを絶えず求めてゐるのである。歴史の中に無歴史的なものが入つてゐる。超歴
史的なものと歴史的なものとの中間に無歴史的なものが、永遠なものと時間的なものとの中間に

劇■
無時間的なものがあると考ふべきであらうか。
q  ★l′. !
 ヽ
ユI・トビア論
四四一