宗教闘争と階級闘争  5.2.23 中外日報

    批評家に答へて



 先頃本紙に発表した拙文に対して諸方面から種々なる批評を受けた。そのうち安部大悟氏の所論の如何なるものであるかは既に諸君の知らるるところである。ここに私は批評に答へつつ私の意見を更に布衍してゆきたいと思ふ。批評家の批評は事象を具体的に弁証法的に把握することなく、あまりに形式的であり、公式的であつて、私を説得し得なかつたからである。
 我々は先づレーニンの次の言葉を読ななければならない。「第一に宗教闘争の課題は歴史的には革命的ブルジョアジーの課題である、そして西欧に於てはこの課題はブルジョア民主々義によつてその諸革命の、換言すれば、封建主義及び中世に対するその襲撃の時代に大なる程度に於て遂行された。フランス竝びにドイツにあつては宗教に対するブルジョア的闘争は、これが社会主義によつて受け取られる以前に久しくその伝統が存在する。ロシヤにあつては、我々のブルジョア的民主々義的革命の諸条件に相応して、この課題もまた殆ど全く労働者階級の肩にかかつてゐる。」
 ここに我々は二つのことをはつきりと見ることが出来る。第一に宗教闘争は、原理的には、それが今日の階級闘争に於ける主要事ではないのである。それは原理的にはブルジョア革命の時代に於ける闘争形態であつた。それだからエンゲルスも、社会主義的社会に於ては宗教を禁止せねばならぬといふデューリングの見せかけの革命的な思想を非難して、宗教にかかる戦を挑むのは「ビスマルク自身の上をゆく」ことであると云つてゐる。即ちそれは僧侶に対するビスマルクの戦の愚劣を繰返すに過ぎぬと云ふのである。彼は労働者の党が宗教に対する政治的闘争の冒険の中に突入することのないやうに要求した。
 第二にレーニンは、右の一般的な原理と共に、個々の国に於ける特殊性に注意してゐる。革命前のロシヤとフランスやドイツなどとは社会的事情が決して等しくはなかつた。その社会的特殊性に応じて、ロシヤの労働者階級は宗教に対する闘争の課題をも殆ど凡て彼等の肩に負はねばならぬ状態にあつた。従つてそこでは、西欧諸国に於けるよりも甚だ大なる程度に於て、階級闘争は宗教闘争の形態をとつて現はれざるを得なかつたのである。
 これら二つの見地を持ち出すことによつてレーニンは弁証法的に思惟した。蓋し事物を普遍特殊との関係に於て考察するといふことは弁証法の本質に属してゐる。しかるに私の批評家たちはロシヤと日本とのそれぞれの特殊性を観察しないばかりでなく、ブルジョア革命とプロレタリア革命との宗教に対する関係の原理的な相違をさへ顧慮してゐないかのやうに見える。まして原理的なものと特殊的なものとの弁証法的関係を考へることは彼等には殆ど全く拒まれてゐるかの如くである。

      二

 今日の日本に於ける宗教の状態が革命前のロシヤに於けるそれと同じくないことは明かであらう。従つてここでは宗教に対する闘争がかしこに於けると等しい重要性をもたない。明治維新以後日本のブルジョアジーは既に反宗教的傾向を示してゐた。否、今日若干の宗教家は既に目覚めて無産階級の戦列に加はらうとする勢のあることは、中外日報の記事や論説のうちにも現はれてゐる筈だ。宗門の大学の学生の間にはマルクス主義に対する関心が次第に高まりつつある。それらの大学の卒業生にとつて失業問題さへもが現実化しつつあるのである。この情勢に面して我々は何を考へ、何を為すべきであるか。
 再びレーニンの言葉を想ひ起さう。或る処でひとりの牧師の直接の感化のもとにひとつのキリスト教的な労働組合が、マルクス主義的な組合のほかに、作られてゐるとせよ。そしてそこの経済闘争がストライキになつたとせよ。マルクス主義者は絶対にストライキの運動の成功のために全力を注ぎ、この闘争に於て労働者が無神論者とクリスチャンとに分裂することのないやうに決定的に戦はねばならぬ。彼はまた云ふ。我々は神の信仰をなほ有する凡ての労働者が真に加入することを単に許すばかりでなく、むしろ彼等を倍加された勢力をもつて引き寄せねばならぬ。この場合我々は彼等の宗教的確信を僅かでも毀損することに対して絶対に反対である。レーニンは階級闘争のためには宗教家との協同をも避けてはならぬとしたのである。
 私が「宗教は階級的にプロレタリアートと結合せねばならぬ」といつたのも無意味ではないであらう。安部氏の想像されるやうに、私は理論としてのマルクス主義と宗教とを結合してなんらかの第三者を作り上げようとしたのではない。私の問題は「宗教とプロレタリア運動」にあつた筈だ。折衷主義の無効果性については私自身はつきりと書いておいた。「結合せねばならぬ」と云つても、それはなんら当為乃至規範を説くのでなく、却つて政策的な意味に於て語られてゐるのである。結合の事実の有無を問はれるならば、その事実は確かにある。今日運動しつつあるプロレタリアの凡てが無神論者であるのでは決してないといふ事実が最も簡単にこれを示してゐる。また安部氏は「歴史は被圧迫階級の味方は常に唯物論−非宗教−であつたことを実証してゐる」と云はれるけれども、これこそ「事実でなくて空論」である。ブルジョア学者の書のみでなく、エンゲルスやカウツキーの書物でさへもがさうは述べてゐない筈である。エンゲルスは書いてゐる。「原始キリスト教の歴史は近代の労働者運動との著しい接触点を示してゐる。後者と等しくキリスト教も本来被圧迫者の運動であつた。」例はなほいくらもあらう。
 それだからと云つて、私は現在の解放運動が宗教によつて可能であるとは記しはしなかつた。却つてそれが不可能であるといふことこそ私の述べんと欲したところである。否、私は今日なほ我が国に於て宗教闘争の必要であることを十分に云つたと思ふ。しかしまたそれだからと云つて私はあらゆる場合に宗教とプロレタリア運動とが敵対すべきであるとは語らなかつた。かく考へることも非弁証法的である。レーニンは云ふ、「非弁証法的に思惟するとは、一の可能的な、相対的な限界であるところのものを一の絶対的な限界に転化することであり、生ける現実に於て分離し難く結合せるところのものを暴力的に互に分離することである。」これはレーニンの宗教論の中に見出される言葉である。


       三

 今日の最も緊要な問題は解放運動であり、それの過程としての階級闘争である。そこでレーニンは我々に語る、「社会民主々義の無神論のプロパガンダは、それの根本課題、即ち搾取者に対する被搾取大衆の階級闘争の発展、に従属されてゐなければならぬ。」このとき「宗教に対する闘争を抽象的に、抽象的で純粋に理論的な、いつも同じなプロパガンダの地盤で戦ふ」ことは弁証法的唯物論者のことでない。しかるに私の批評家たちはいつも同じ題目の「マルクス主義は唯物論である」とか、「三木は観念論である」とかを繰返してゐるだけに過ぎないやうに思はれる。
 ところで私の思想とマルクス主義の理論と相違はあるであらうか。私は宗教の弁証法的否定を説くに反して、マルクス主義はそれの絶対的否定を主張すると見られる。根本的な点に於てそこには差異がない。一、現在に於ける解放運動は単に宗教によつては不可能である。二、階級闘争の立場から現在と雖もプロレタリア運動が宗教と結合することは可能であり、また場合によつては必要でもある。これらは根本命題であつて、固より私の既に度々述べて来たところである。問題は搾取なき階級なき社会の到来と共に宗教は不可避的に消滅するか否かといふことにかかはつてゐる。言ひ換へればかうである。宗教は徹頭徹尾階級的なものであるか、それともそこには階級と共に消滅せざる超階級的なものがあるか。従来の藝術は階級的であつたにも拘らず、藝術に於ては階級と共に消滅せざる超階級的な活動が可能であると見られるに対して、宗教に限つてこのことは絶対に不可能であるのかどうか。
 従来の宗教の多くの内容が搾取の廃棄と共に消滅することは明瞭である。搾取による貧困がある、宗教はこれを社会的に解決しようとせずして、貧乏除けの神を作る。無統制な市場の存在による不慮の災害がある、そこから幸運の神が作られる。かくの如き神々はもとより社会の変革と共に必然的に死滅するであらう。これまでのいはゆる宗教問題の多くのものが全く社会的原因に由来するものであり、従つて社会的に解決され得るものであることは疑はれない。この点を十分に指摘したところにマルクス主義の偉大な功績が認められねばならぬ。
 然しながら問題はなほ残りはしないであらうか。私は、藝術がさうであると見られてゐるやうに、宗教もまた階級的であることをやめた人間のうちにもなほ根をもつてゐると考へる。搾取なき社会にあつては宗教もそれに応じて全く新しい形態をとるであらう。しかしそのときにも宗教はある。嘗てニーチェは従来の哲学思想は無気力な、生活意志の弱い哲学者と呼ばれる人間のタイプから生れたと考へた。しかし健康なる者の哲学もある。また哲学が凡て特殊科学に解消されてしまつてなくなるとも思へない。丁度そのやうに宗教的意識の単純な消滅といふことは私には考へられないのである。ゲーテの如き現実的な、活動的な、幸福な、健康な人間もなほかつ魂の不死について、もとより彼自身の仕方に於て、考へた。隷属と貧困のうちにのみ宗教の原因は求めらるべきでないであらう。