東亜研究所


 国策には理論の基礎がなけれはならぬ。統制といふやうなことにしても、ただ個別的にやつてゐるのでは真の統制にならず統制を計画的にやつてゆかうとするには理論が必要である。
 支那に対する政策においても一元化が要求されてをり、対支中央機関の如きものが既に久しく問題になつてゐるのであるが、このやうに対支政策を統一化するためにはその根柢として理論が必要である。
 国策といふ言葉は近来ひとつの流行語になつてゐるが、果してそれに相応する理論が確立されてゐるのであるか。むしろ理論の貧困のために、頻に国策と云はれながらその内容もその方向も何であるかが国民に徹底してゐないことが多いのではないかと憂へられるのである。
 日本は今大陸に未曾有の行動を起してゐる。この行動には理論がなけれはならぬ。支那における日本の行動が従来の欧米資本主義諸国の帝国主義的侵略とは全く異る性質のものであるといふならば、その独自の行動にはそれに相応する独自の理論がなければならない。果してそのやうな理論があるのであらうか。
 もちろんあらゆる場合に理論が先にあつて行動が従ふといふのではない。時には行動が先に立つといふこともある。しかし一旦行動が始まれば、その行動を完全に遂行するためにも理論が要求されてくるのである。
 これまで日本における支那の研究には、一方にはただ古典的な支那に没頭して現代の支那の動きについては関心もなければ知識ももたない支那学者があつた。彼等の研究が今日の日本の行動の理論にとつて不充分であることは云ふまでもない。他方にはいはゆる支那通といふ人々があつて、彼等は支那の現状について知つてゐるにしても、その知識は甚だ非科学的であり、そのやうな知識が如何に不完全なものであつたかは今次の事変の発展によつて実証されたのである。
 右の如き事情において今度東亜研究所の設立を見るに至つたのはまことに喜ばしいことといはねばならぬ。それは日本と支那との関係から考へてずつと以前に出来てゐなけれはならなかつたのであるが、しかし今からでも好い、それが十分に効果的な発展を遂げることが期待されるのである。
 この研究所に対して先づ希望したいことは、それがどこまでも科学的な研究に進むことである。余りに政策的になることは研究の客観性を失はせ、その研究を結局無意義にならしめる。行動にとつても真埋ほど貴重なものはなく、必要なものはないのである。しかるに今日の如き情勢においては研究が余りに政策的になるといふ危険が多い。この点は東亜研究所が企画院と余りに密接な関係を有するやうに見える現在特に注意すべきことであらう。
 次に希望したいことは、従来この種の研究機関の陥りがちであつた官僚主義に陥らないことである。東亜研究所は純然たる官設機関ではないが、半官半民といつても、これまで我が国においてはとかく官僚主義になつたものである。研究上の官僚主義の弊は特にその秘密主義に認められる。東亜研究所はそのやうな弊に陥ることなく、その研究の結果を随時発表して社会のあらゆる方面の人々の研究に供し、且つそれによつて公の批判を得て自己の研究を進めてゆくやうにして貰ひたい。
 そのやうにすることは単にその研究所に対する一般の関心を惹くのみならず、今日全国民の関心を要求してゐる支那の問題について国民を教育する上にとつても大切なことである。文部省の国民精神文化研究所の如く国民と関係のないものになつてしまはないやうに注意しなければならぬ。支那の問題、大陸の問題は国民全体の問題であるといふことを忘れてはならない。