「廿世紀の思想」



 二十世紀の思想とは如何なるものであらうか。それは形式的に云へは「中間の思想」であり、また「第三の秩序」である、と私は考へる。二十世紀の思想が中間の思想であり、また第三の秩序であるといふのは如何なる意味であらうか。
 近代社会は中世のカトリック主義、つまり教会的世界主義を破つて現れた国民主義と共に始まつた。しかしこの国民主義は単なる特殊主義であつたのでなく、同時に自己のうちに世界的原理を胚胎してゐたのである。自由主義、個人主義、合理主義といはれるものがそれであつて、それが近代的世界の普遍的原理である。その普遍性に従つて近代社会の発展の過程において中世の教会的世界主義とは異る一つの新しい世界主義が現れてきた。この近代的世界主義は諸民族のそれぞれの特殊性を認めないことによつて抽象的なものになつてゐる。否、この世界主義は、恰も個人主義の立場においては社会が抽象的なものであるやうに、同じ近代的原理の上に立つことによつて世界を抽象的なものにしたのであり、真の世界主義ではないのである。
 現代はまさにこの抽象的な近代的世界主義の破れる時代であるといへるであらう。しかしながら近代的世界主義を破つて新たに現るべきものは最早や単なる民族主義乃至国民主義であり得ない。民族主義とか国民主義とかは却て中世的世界主義の破れた近代の初めに固有なものであつたのである。現代において民族主義もしくは国民主義の有する意義は近代の抽象的な世界主義に対する否定の契機になることにあつて、落付くべきところは最早や民族主義や国民主義であることができぬ。それは勿論いはゆる世界主義でもない。それはいはば民族と世界との中間にあるもの、単なる民族主義でもなく単なる世界主義でもない第三の秩序である。今日東亜協同体といふやうな新しい一つの全体の構想される重要な意義を我々はそこに認めることができるであらう。
 東亜協同体の原理は近代的な個人主義や自由主義でなくて全体主義でなければならぬ。けれどもそれは民族を超えて形成される一つの新しい事として、これまでナチス流の全体主義が民族主義であつて非合理主義であつたのに対し、その原理は一層合理的なものであることが必要である。なぜなら民族と民族とを結び得る思想は、一民族の内部においては可能であるやうな秘教的なものでなくて合理的なものでなけれはならないからである。それはローゼンベルクのいはゆる「二十世紀の神話」でなくてまさに「二十世紀の思想」でなければならぬ。二十世紀の思想は単なる合理主義であり得ないと同様、単なる非合理主義でもなく、却て第三の秩序のものであることを要求されてゐる。
 しかも東亜協同体といふやうな第三の秩序は、近代の国民主義が同時に普遍的原理を胚胎してゐたやうに、同時に自己のうちに新しい世界的原理を含んでゐなければならない。さもなければ、それが世界史的意義を有することは不可能であると云はねばならぬ。 

   (十二月二日)