婦人の進出



 支那事変が始まつてから現れた種々の社会的変化のうち著るしいものの一つは婦人の進出である。この傾向は今後恐らく更に増大してゆくであらう。欧洲大戦はヨーロッパにおける婦人の社会的進出に一時期を劃したと云はれてゐるが、現在我が国においても同様の事実が見られ、そしてそれは事変後の社会に重要な変化をもたらすに至るであらう。
 かやうな婦人の進出にも種々のものがある。出征軍人の歓送、その家族の慰問等、まづ直接に事変に関係したものがある。それらの誰の眼にも付く事実のほかに、今はあまり注意されてゐないが事変後においてその重大性が明瞭に認められてくるであらうと思はれるやうな、職業と寮生活とに関係した無数の事実がある。またいはゆる「大陸の花嫁」の如き婦人の満洲への進出も今後益々重要な問題になつてくるであらう。
 それらのことと共に、ここに一つ注意したいのは北京生活学校のことである。それは自由学園の女子卒業生によつて経営され、支那の若い娘を集めて日常生活に必要な知識と訓練とを与へてゐるのであるが、この種の婦人の大陸への進出はこの頃の文士の漢口従軍にも決して劣らない意味をもつてゐる。それは小規模のものであるにしても、対支文化工作全般に対して種々の教訓を含んでゐるやうに思はれる。
 伝へられるところに依ると北京の生活学校はなほ危険のある地域において活動してゐるとのことである。かやうに勇敢に立ち働くことができるのは、支那人を信頼してゐるからであると云へるであらう。実際、この支那人に対する信頼がすべての文化工作にとつて前提でなければならない。そして支那人に信頼を持つためには彼等の好いところを理解することが必要であり、チャンコロ式支那人観が訂正されなけれはならない。支那人を信頼することなしには、新しい東亜の建設といふ今次の事変の大きな目的は達成されないのである。
 対支文化工作といつても、生活の問題が基礎である。この点において北京生活学校が支那人の日常生活を文化的に向上させることに努めてゐるのは適切であると思ふ。対支文化工作が問題にされる場合、思想のことが喧しくいはれ過ぎるのが常である。思想の問題はもとより極めて重要ではあるが、ただそのことのみ喧しくいつて生活の問題を忘れるならは全く抽象的なものになつてしまふ。殊に支那人のやうに「生活派」とでも云ひ得るやうな人生観世界観をもつてゐる民族に対しては、その点に注意することが大切である。対支文化工作の第一の問題は支那人の生活を善くしてやることでなければならぬ。文化と生活とを分離しないで生活即ち文化といふやうに考へることが古来東洋の特色であるのであるが、近年思想問題が喧しくなつてくると共に、日本主義とか東洋精神とかといふ人々の間において却て思想を生活から抽象して考へるやうなことが生じてゐはしないか、注意しなければならぬ。
 北京生活学校が自分の力で活動してゐるのは全く組織の力である。婦人も組織されるならは社会的な力になることができる。北京生活学校は特に満洲にゐる日本婦人の活動に対して種々の示唆を与へるであらうと思ふ。

(十月七日)