文化の闘争
支那の文化には蠱惑性とでもいふべきものがあるやうである。永く支那に住んだ人は皆その不思議な魅力について語つてゐる。支那の文化には人の心を蕩けさせ溺れさせるやうな力があるやうである。昔から屡々他の民族の侵入を受けながら、それらの征服者を却つて自分に同化してしまつたといはれるのも、支那文化の有するそのやうなカに依るのであらう。これは今日本人の注意を要することである。
今後日本の文化は支那の文化と闘つてゆかねばならぬ。武力戦よる戦争が終熄した後においても文化による闘争があるのである。この闘争は永い間継続するものであつて、この闘争において敗北するやうなことがあれば武力の戦争における勝利も結局その意義を失ふことになる。文化上の闘争は平和な手段によつて行はれるのであるが、それが闘争であることにおいては変りがない。支那の文化がもつてゐる蠱惑性に対して日本の文化は如何なる力をもつて戦ふべきであらうか。知性の力に依るのほかないと私は考へる。
いつたい海に接することの多い国の文化は知的なところが多いやうに思はれる。イギリスの文化とロシアの文化、フランスの文化とドイツの文化といふやうに比較してみても、そのことが知られるやうに思ふ。西洋の知的文化が地中海の沿岸に初めて現れたといふことも偶然でない。そして日本の文化にはギリシアの文化に似た知的なところがあり、また特に支那の文化に対する日本の文化の特色はその知的なところにあると思はれる。このごろでは日本においても非合理主義が盛んに唱へられてゐるが、それは西洋思想の影響に依るのであつて、日本人は元来知的な民族である。
文化の闘争は文化の発展の契機になることができる。ギリシア人があのやうに立派な文化を作つたのは、ギリシア民族の優秀性にも基くであらうが、それが当時の地中海沿岸に存在した種々の文化と闘ひつつ益々自己の知的な性質を敬遠させていつたためではないかと思ふ。実際、文化の闘争はそのうちにおける知性の発達に役立つものである。狭い範囲の人間だけなら、また同質的な人間だけなら、気分的に理解し合ふこともできるのであるが、広い範囲の人間、異質的な人間に対して自分の力を示すためには知性の力、論理の力に依らねばならない。日本人は直観的であつて論理的でないと云はれるけれども知性と直観、直観と論理を抽象的に分離することは間違つてゐる。ギリシア人においては知性も理論も直観的なものであつたものである。
今後日本の文化が支那の文化と闘つてゆくためには日本の文化の知的な性質が深く反省されなければならない。従来この点についての反省が欠けてをり、特に最近の非合理主義的傾向がこの点を益々曖昧にしてゐるのは好くない。また日本の文化は支那の文化に対する闘争を自分の知的な要素の発展の契機にしてゆかねばならぬ。そしてかやうにして東洋に知的な文化が発達することは支那の文化の今後の発展にとつても好い影響を与へることになるのである。
(十月六日)