大陸的日本人



 社会の転換期には新しいタイプの人間が生れねばならないし、また生れるであらう。変化する社会は新しいタイプの人間を必要とするし、また変化する社会の中からは新しいタイプの人間が生れて来るものである。
 人間タイプの創造は文学の仕事である。過去の偉大な文学作品はつねに人間の新しいタイプを創造してきた。しかるにこの革新の叫ばれる時代において、日本の文学は果して要求される新しい人間のタイプを創造してゐるであらうか。まさにこの点から見て、現在の文学はなほ甚だ貧困であると云はねばならぬ。人間タイプの創造はまた哲学の仕事でもある。哲学もまたこの時代の求めてゐる人間理想を構成しなければならない。今日いはゆる人間学は、元来、この社会の転換期において崩壊しつつある旧い人間タイプに対して新しい人間理想を確立すべき任務を有するものである。しかるに我が国の講壇哲学の手にかかると、かやうな人間学も時代の要求とは何等関はりのないものにされてしまふ。
 新しいタイプの人間の創造はしかし単に文学や哲学のみの仕事ではない。それは実にこの転換期の社会に生きる凡ての人々の生活的な課題である。その時代に対して積極的に働き掛けようとする者は、自己の人間を変革し、自己を新しい人間として主体的に確立しなければならぬ。現代日本が必要とするのは大陸的人間だと云はれてゐる。しかし単なる大陸的人間が要求されてゐるのではない。新しいタイプの大陸的人間が要求されてゐるのである。
 従来とても大陸に居住する日本人のすべてが大陸的人間であつたわけではない。彼等の中にはいはゆる出稼ぎ根性の人間が尠くなかつた。満洲の如き土地へ行くことを植民地へ出稼ぎにゆくことであるかのやうに考へる者が多かつた。かやうな人間が大陸的人間でないことは云ふまでもない。かやうな考へ方は満洲国の成立以来清算さるべき筈であり、そこに満洲国成立の一つの意義があるのである。
 従来の大陸的日本人にはその感情なり意志なりにおいてなかなか立派な人間があつた。ただ借いことには、彼等の多くはその知性において局限されてをり、科学や思想、その他文化的なものにおいて欠陥があつたやうである。新しいタイプの大陸的人間は旧いタイプの大陸的人間の持つてゐる立派なものを継がねばならぬことは勿論であるが、なほその上に特にその知性においてすぐれた人でなければならない。ともすれば失はれ易い文化的意欲を強く持ち続け、つとめて思想的なものに接解して摂取することが肝要である。そして何よりも大切なことは、東洋における日本の世界史的使命についてつねに理論的な自覚を持つといふことである。
 新しい建設に向つて進みつつある満洲国においてはすでに内地では見られないやうな新しいタイプの日本人が作られてゐると聞いて、我々は頼もしく思つてゐる。来るべき新しい日本人のモデルになり得るやうな人間がそこから生れてくるのは望ましいことである。

 (八月二日)