大陸科学の建設
支那事変もすでに一年を過ぎた。事変はいはゆる第三期に入り、板垣陸相の云つたやうに「長期建設」が問題になつてゐる。
この一年の間に日本においては支那に関する書物が多数に出版された。その中には翻訳もあり、旧刊の覆刻されたものもあるが、新たに書かれたものも尠くない。私はその方面の専門家ではないが、近来努めてそれらの書物に目を通し、更に若干の外国書をも読んで見た。その際私の感じたことは、これまで日本の支那通と呼ばれる人々の物の見方が非科学的なことである。それらの本は読み物としては相当に面白く、また種々様々の知識を与へてくれはするが全体として科学的に出来てゐないやうである。
中には科学的に書かれてゐると思はれるものもある。しかしそれらは如何にも独創性に乏しいやうに感じられる。それらは根本的な見方において、或ひは英米の、或ひはソヴェートの、或ひはフランスの、支那研究に依存してゐる。かくの如く独創性に乏しいといふことは、単に私の感じであるだけでなく、専門の支那研究家に尋ねてみても、確にさうであるとのことである。支那問題についてさへ我々は遺憾ながら外国人の研究から最も多く学び得るといふ状態である。
日本は今大陸において未曾有の行動を起してゐる。この行動はアジアに新しい秩序を建設すべき行動だとせられてゐる。日本の行動はかくの如く世界史的使命を有するものとして全く独創的な行動である。独創的な行動には独創的な認識が伴はねばならぬ。独創的な認識なしに真に独創的な行動を成就することはできない。しかるに若し日本にいつまでも独創的な支那認識が欠けてゐるとしたならは如何であらうか。
独創的な認識といつても、もとより単に主観的なものであることを許されない。認識は認識として科学性を持たねばならぬ。単に主観的な意見ならは、我々はありあまるほど持つてゐるのである。今度の事変以来ひとつの著るしい傾向は、新聞雑誌に現れる支那論の多くが政論的になつたことであり、これは当然のことであるにしても、そのやうな政論乃至政策論の極めて陥り易い欠点は、それが主観的なものとなり、自己の希望を現実とすりかへるといふことである。我々の必要とするのは客観的な科学的な支那研究である。
例えばイギリスがそのインド経営にあたつて如何に周到なインド研究を遂げたかを我々は想起する。もとよりイギリスのインドに対する場合、それは植民地侵略であつた。日本は支那に対して何等侵略の意図を有するものでなく、共に携へて新しい秩序を東洋に建設しようとしてゐるのである。この行動の独創性は独創的な認識を必要とするのであるが、それが認識である限り科学的でなけれはならぬことは云ふまでもない。
日本はいま新しい大陸科学を必要としてゐる。それは少数の人間の力によつて建設され得るものでなく、多数の人間の協力を要求してゐる。種々の点においてこの研究に便宜を有する在満の諸君がこの新しい大陸科学の建設に関心を持たれることが切望されるのである。それは諸君の特別の義務でさへある。
(七月三十日)