自然と文化
さきほど関東に水害があつてから間もなく関西も同じやうに水害に見舞はれた。この時局にこの不幸を見たのはまことに遺憾なことである。自然の前に人間が如何に無力であるかが今更痛感されるのである。
しかし自然に屈服することに甘んずるのは文明人の恥辱である。文明とは人間による自然の征服と利用を意味してゐる。人間は自然の項境に適応しつつ生活するのであるが、この通応は人間が自主的に自然に働き掛けてこれを変化するところに成立するものにして初めて文化と云はれ得る。
この間も或る北海道の人が話してゐたことであるが、函館は天然の良港だといふので港湾工事がとかく軽視され、そのために函館の発達が遅れてきた。このやうに日本人には自然に頼り過ぎる傾向がある。それは先般の水害においても感じられることである。自然に恵まれてゐるといつても、自然に頼り過ぎると、却つて文化の発達は阻害されることになる。
自然に頼り過ぎるといふことは、広く考へると、日本人の自然観や人生観とも深い関係があるやうに思はれる。由来日本人は自然と人間とを社会的に考へてきた。西洋人が自然と人間とを鋭く対立させ人間中心主義的な考へ方をもつてゐるに反して、東洋人は自然と人間とを調和的に見る独時の自然主義的な考へ方をもつてゐる。
自然と人間とを対立的に見る西洋人は人間を抽象化することによつて却つて唯物主義の弊に陥つた。しかしそれだけまた彼等は自然を支配するための科学や技術を発逢させ、自然の脅威に対して人間生活を防衛する事に努力したのである。これに反して東洋人は自然と人間とを調和的に考へることによつて独特の精神主義を把持してゐるのであるが、しかしまたそのために自然に対する科学や技術において遅れて来たのである。
自然と人間との関係についての東洋的な具体的な見方はどこまでも生かして行かなければならない。しかし同時に近代の科学的な技術によつて自然の災害から人間生活を防衛するやうに心掛けることが大切である。人間は技術によつて自然を征服すると普通にいはれてゐるが、技術の自然に対する関係は単なる征服ではないのである。自然はこれに服従するのでなけれは征服されない、といふのはベーコンの有名な言葉である。自然の征服は同時に自然への服従であり、自然の支配は同時に自然との協力である。ただ自然を搾取することは自然を利用する最上の方法ではない。自然に対する人間の技術は自然の支配を通じて自然への一層高い適応、一層高い調和を求めることである。技術は自然をしてその本性を発揮せしめ、自己を完成せしめる。しかもそれは人間の本性に属する理性を発揮することによつて可能にせられる。もし技術の発達が自然や人間を荒廃させることがあるとすれば、それは技術そのものの罪でなくて社会制度の罪である。
(七月二十一日)